いま話題の映画「おくりびと」を見てきました。
ロケ地となった山形県酒田市あたりの風景が美しく、主人公が元チェリストであったという設定から、本木雅弘氏が、雪を頂いた山(月山だそうです)を背景に野原でチェロを弾く場面もあって、宮澤賢治の伝記的映画の一場面(こちらは岩手山を背景としたチェロ演奏)や、「セロ弾きのゴーシュ」なども連想しました。
諸外国からは、「死者を送るための日本の伝統的様式美」を評価されたということですが、実は「納棺師」という仕事が一つの職業として成立したのは、1954年に起きた「洞爺丸沈没事故」がきっかけということで、これが「日本の伝統」と呼ばれるにはあまりにも歴史の浅い営みであるのは、ちょっと皮肉なことです。しかし、映画で繰り広げられる納棺師の仕事の場面には、たしかにしっかりとした「様式美」があって、そこには、茶道などに継承されてきた「型」の美学や、やはり日本的な死生観が、たくみに取り込まれていることが感じられました。
映像の中の納棺師の仕事を見ていると、遺体を消毒液で拭いて「清める」という作業が繰り返し出てくるのが印象的です。これは奥深いところでは、日本人の意識にある「死のケガレ」という観念と、関係があるのでしょう。
そして、このように身体を丁寧に拭く動作から私が連想したのは、賢治の最期として伝えられている以下の情景でした。
みな下に降りて母一人が残った。
「おかあさん、すまないけど水コ」
母が水をさし出すと、熱のある体をさわやかにするのか、うれしそうにのみ、
「ああ、いいきもちだ」
と、オキシフルをつけた消毒綿で手をふき、首をふき、からだをふいた。そしてまた、
「ああ、いいきもちだ」
と繰り返した。母はふとんをなおしながら、
「ゆっくり休んでんじゃい」
といい、そっと立って部屋を出ようとすると、眠りに入ったと思われる賢治の呼吸がいつもとちがい、潮がひいていくようである。
「賢さん、賢さん」
思わず強く呼んで枕もとへよった。
ぽろりと手からオキシフル綿が落ちた。午後1時30分である。
(『新校本全集』年譜篇より)
ここに描かれた、まるで物語的なほどの清らかさは、妹トシの臨死の床の会話「おら、おかないふうしてらべ」「うんにゃ ずゐぶん立派だぢゃい」「それでもからだくさえがべ?」「うんにゃ いっかう」(「無声慟哭」)の、現実的な迫真性とは、対照的です。
『旧校本全集』年譜篇の記述によれば、トシの臨終の後、家族の皆の悲嘆が一段落してからの情景は次のようなものでした。
やがて、賢治はひざにトシの頭をのせ、乱れもつれた黒髪を火箸でゴシゴシ梳いた。
重いふとんも青暗い蚊帳も早くとってやりたく、人びとはいそがしく働きはじめた。
若い乙女の黒髪とはいえ、長らく洗ったりといたりすることもできずにいたそれは、火箸でゴシゴシ梳かざるをえなくなっていたのでしょう。しかし、このようにして死者の身体を少しでも美しく整えるという仕事は、まさに現代日本では「納棺師」が行う仕事であり、昔は死者の家族が、その役割を果たしていたのだということが偲ばれます。
上述の賢治の死の場合などは、自ら「オキシフルをつけた消毒綿で手をふき、首をふき、からだをふいた」ということで、まるで死の直前から自分自身の「納棺師」の仕事を始めていたかのようです。
あと、賢治との関連では、本木雅弘氏がこの映画を着想するきっかけとなったという『納棺夫日記』という本の中で、著者の青木新門氏が次のように書いておられることを、かぐら川さんの「めぐり逢うことばたち」における「「おくりびと」の賢治と親鸞」という記事において、私は知りました。
「死」というものに一層こだわりながら、いろんな書物をよんでいるうちに、宮沢賢治と親鸞に特別な関心をもつようになっていた。二人に絞られていったのは、人が死を受け入れようと決意した瞬間の不思議な現象を解く鍵を、宮沢賢治と親鸞が握っているように思えてきたからである。
「死を受け入れようと決意した瞬間の不思議な現象」…そのような賢治の作品として皆様が思い浮かべるのは、たとえば「なめとこ山の熊」? 「よだかの星」? 「眼にて云ふ」? それとも?
lent
「1969年に起きた函館の漁船沈没事故」というのは、青函連絡船(賢治も何度も乗っています)「洞爺丸沈没事故」(1954)で2000人近くの遺体が函館の浜に打ち上げられた時のことでは、なかったのでしょうか。北海道生まれなもので、あのすさまじい台風の夜のことは、大人たちがおお慌ててで子供を非難させた(私は当時6歳)ことが、記憶の底にあります。
かぐら川
『納棺夫日記』、とりあげていただいて有難うございました。
どうも「1969年、函館で起きた漁船沈没事故」というのは本木さんの記憶間違いのようですね。地元、函館でもこのモッくん情報――というより鼎談を載せた「ほぼ日刊イトイ新聞」の確認不足というべき――で、ちょっとした騒ぎになったようです。
http://www.hakodate150.com/modules/d3blog4/details.php?bid=1292&offset=6
lentさんのおっしゃるように、「1954年、北海道で青函連絡船「洞爺丸」など5隻が沈没し、1430人の犠牲者を出した海難事故」(読売新聞ほか)というのが、正しいようです。
青木新門さんがホームページをお持ちだということを知りませんでした。なんとここには、新門さんが「宮澤賢治17号」(洋々社)に寄稿された巻頭エッセイが収められていました。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shinmon/shin08.htm
雲
「おくりびと」を、わたしも、観ていました。
母の介護中なので、複雑な気持ちで、行ったのを覚えています。
映画の根底に、賢治の思想や「セロ弾きのゴーシュ」が、隠れているよいに、感じました。
しかし、パンフレットを読んでも、そんな事は、全然、出てきませんでした。
今日、青木さんの宮沢賢治考も読み、なんだか、とても、すっきり、しました。
映画では、死者がどこへ往ったのか、描かれていなかったので、原作者からは、ご遠慮されたことが、新聞記事に、出ていたが、アカデミー賞は素直に喜ばれてらっしゃるお気持ちも、わかって、本当に、良かったです。
HAMAGAKIさん、いつも、どうも、ありがとうございます。
hamagaki
lent 様、かぐら川様、雲様、コメントをありがとうございます。
ご指摘のように、「納棺師」のルーツは、1954年の「洞爺丸沈没事故」にあるということのようですね。かぐら川様が触れられた「読売新聞」記事によると、
とのことです。
lent 様、かぐら川様、私の誤りを正していただきましてありがとうございました。本文の記載も訂正いたしました。
また、青木新門氏が『宮沢賢治 17』に寄稿されていたことも、ご指摘で初めて気がつきました。青木氏が挙げておられた賢治の作品は、「眼にて云ふ」「マグノリアの木」、そして「永訣の朝」が少し、でしたね。
かぐら川
hamagaki様、lent様
ほぼ日刊イトイ新聞の鼎談「死を想う」の海難事故をめぐる記事ですが、
納棺師誕生につながった事故が、〔1954年の洞爺丸などの沈没事故〕であり、[1969年]というのは、そうした事故の対応から〔札幌に「納棺協会」が設立された〕年、というふうに訂正されましたね。
ご報告まで。
http://www.1101.com/okuribito/2008-11-28.html
hamagaki
かぐら川様、ご教示ありがとうございました。私としても、記事を書く際には情報の裏づけなど、よりいっそう丁寧に心がけていきたいと思います。
それにしても、青木新門氏の著書の題名にある「納棺夫」という言葉と、映画でも使われていた最近の用語「納棺師」との間に、この仕事に対する社会的まなざし、あるいは仕事をする方々の職業意識というようなものの、16年間の変化が表れているような感じがします。
かぐら川
賢治の亡くなった日に、TBS系の放送で「おくりびと」を見ました。映画を見に行こうと思いながらいつのまにかその機会を逃してしまったのですが、こんなに早くテレビ化されるとも思っていませんでした。この作品の原点となった青木新門さんの「納棺夫」からの――賢治の生命観をも含みこんだ――思念の潜流については別に考えたいのですが、どうしても考えておきたいのは、この映画のテーマの一つであった「石ぶみ」という形での原始的でありながら深い情報量をもった「石のメッセージ」のことです。
賢治ほど地球の歴史態の顕現ともいえる「鉱物」に強いメッセージ性を感じ、みずからの作品にもそれを書き込んだ作家は多くはないのではないでしょうか。そしてそのことを私に教えてくれたのが、みずからも死の床にあって、渡良瀬川の石と聖書を強烈なメッセージとして残した田中正造です。
正造から賢治へ、そして我々へ引き渡されたメッセージの結晶態の「石ぶみ」のことをあらためて考えています。
hamagaki
かぐら川さま、こんばんは。
「石ぶみ」といっても、私にはせいぜいなぜか本能的に、石碑を見たくなってしまう習癖がある程度ですが、どうかまたご思索の結果をご教示いただければ幸いです。
今日も一つ、初めての賢治の詩碑を見てきました。
平名
最初の避難が非難に成っている様な 今頃に成って?