阪神タイガースの優勝も危うくなるような暗い世相の中にあって、いまマスコミで久々の明るいニュースとして取り上げられているのは、相次ぐ日本人のノーベル賞受賞です。
特に物理学賞の3氏受賞は驚きで、その業績の具体的理解は私の能力をはるかに越えていますが、伝えられるところによれば、南部陽一郎氏の授賞理由は「対称性の自発的破れのしくみの発見(1961)」、益川敏英氏、小林誠氏の授賞理由は「CP対称性の破れを説明する理論モデルの提唱(1973)」ということです。その領域は異なるものの、「世界の根源における対称性の破れ」を明示したという点で、なぜか3氏の受賞業績は共通性を持っています。
私はたしか高校生の頃に、マーティン・ガードナー著『自然界における左と右』という本を読んだことがあって、当時の自分にはたいそう難しかったのですが、それでもこの本で「物理法則の左右対称性(鏡像対称性)が崩れている=パリティが保存されない現象が発見されている」という科学的事実を知り、そこだけは非常に印象的におぼえています。この世に現実に存在する物体は厳密には左右非対称ですが、基本にある「物理法則」は左右対称であって、鏡に映しても一緒だろうという素朴な思いが、真っ向から否定されたのです。(『自然界における左と右』については、「松岡正剛の千夜千冊」でも紹介されています。)
その後、パリティ(P)対称性は保たれていなくても、電荷(C)の逆転を伴う「粒子から反粒子への変換」とパリティを合わせた「CP対称性」は保たれる(すなわち、物質と反物質は対称である)という、より高次の対称性を維持する理論が出されました。しかし、その後またCP対称性も破れている現象が発見され、さらにこの「世界」が存在する(=物質が反物質よりも多い)ためには、CP対称性も破れている方がかえって好都合という話になり、ここから小林・益川氏の業績に連なっていくのだと思います。
さてここで、どうしても連想してしまうのが、「西洋の美学は対称性にあり、日本の美学は非対称性にある」というような東西文化の比較論です。これは、建築物について論じられたり、壮大な幾何学的対称性を持つヨーロッパの庭園と、枯山水のような日本庭園の違いにおいて論じられたりもしますが、西洋絵画と日本の浮世絵の比較、後者から前者への影響について詳細に分析しているのが、下の本です。
美のジャポニスム (文春新書 (039)) 三井 秀樹 文芸春秋 1999-04 Amazonで詳しく見る |
ゴッホ、モネなど印象派の画家たちが、日本の浮世絵に出会って衝撃を受け、西洋からすると斬新なその表現技法を、いろいろな形で取り入れていったことはよく知られています。上の本で著者の三井氏はこれをさらに詳しく比較検討し、西洋絵画にはなかった浮世絵の表現の特徴として、次のような諸点を挙げます。
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アンシンメトリー(非対称性)と誇張
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余白を生かした構図
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斜線のコンポジション
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抽象化した装飾的表現
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平面的表現性と色彩の大胆さ
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非定形と定形のバランス感覚
で、こんなことをなぜ引用するのかというと、生前の賢治も浮世絵を非常に愛好し、たくさん蒐集していたからには、彼の空間表現的美意識には、上記のような特徴も潜んでいるのではないか、などと思うからです。
例えば賢治の短篇「花壇工作」は、彼が花巻共立病院に花壇を設計しに行った時の出来事に基づいていると推測される作品ですが、その中に下のような部分があります。
院長はたうとうこらへ兼ねて靴をはいて下りて来た。
(どういふ形にするのです?)
(いま考へてゐますので。)
(正方形にやりますか。) どういふわけか大へんにはかにその博士を三人も使ってゐる偉い医学士が興奮して早口に云った。
おれはびっくりしてその顔を見た。それからまはりの窓を見た。そこの窓にはたくさんの顔がみな一様な表情を浮べてゐた。愚かな愚かな表情を、院長さんとその園芸家とどっちが頭がうごくだらうといった風の――えい糞考へても胸が悪くなる。
(えゝもう、どうせまはりがかういふぐあひですから対称形より仕方
ありますまい。)
おれは感応した帯電体のやうにごく早口に返事した。院長がすぐ出て行って農夫に云った。
(その中心にきれを結びつけてこゝのとこまで持って来て、さうさう、
それから円を描きたまへ。関口。そこへ杭をぐるっとまはすんだ。) 院長は白いきれを杭の外へまはした。
あゝだめだ正方形のなかの退屈な円かとおれは思った。
(向ふの建物から丁度三間距離を置いて正方形をつくりたまへ。)
だめだだめだ。これではどこにも音楽がない。おれの考へてゐるのは対称はとりながらごく不規則なモザイクにしてその境を一尺のみちに煉瓦をジグザグに埋めてそこへまっ白な石灰をつめこむ。日がまはるたびに煉瓦のジグザグな影も青く移る。あとは石炭からと鋸屑で花がなくてもひとつの模様をこさへこむ。それなのだ。もう今日はだめだ。設計図を拵へて来て院長室で二人きりで相談しなければだめだと考へた。
賢治はまず院長から「形」を尋ねられて、「どうせまはりがかういふぐあひですから対称形より仕方ありますまい」と答えます。「まはりがかういふぐあひ」というのは、病院の建物によって囲まれた、直線や直角の支配する区域にある、ということなのでしょう。そのような景色の中に花壇を作るという制約のもと、賢治は「対称形より仕方ありますまい」と述べて、自分は本来は「対称形」とするのは不本意であるというような気持ちをほのめかします。「アンシンメトリー」への志向があるようなのです。
さらに後の方の説明では、「対称はとりながらごく不規則なモザイクにして・・・」と述べていますが、これは上の三井氏のまとめに従えば、「6. 非定型と定型のバランス感覚」ということになるのではないでしょうか。
「煉瓦をジグザグに埋めて」というのは、煉瓦を斜めに立てて埋め込むことを表していて、それによって「煉瓦のジグザグな影」というものも際だつのです。右写真は、佐藤進『賢治の花園』から引用したものですが、これは1990年に、花巻総合病院に賢治の花壇を復元しようということで新たに造成された花壇で、煉瓦の埋め方は宮澤清六氏の教示によるそうです。
これこそ、煉瓦の姿とその影も含めて、三井氏の言う「3. 斜線のコンポジション」ではないでしょうか。
さらに、「まっ白な石灰をつめこむ」「石炭からと鋸屑で花がなくてもひとつの模様をこさへこむ」というのも、「5. 平面的表現性と色彩の大胆さ」に相当するように思えます。
すなわち、「正方形のなかの退屈な円」というような単純な対称性に嫌悪感を示す賢治は、三井氏が抽出したような「浮世絵的」な空間表現を、花壇設計において無意識のうちに目ざしていたように、私には思われるのです。
もちろん、賢治が設計した花壇のうちには、きれいな対称性を持った西洋風のデザインのものもあります。しかし、賢治の花壇の代表とも言うべき「南斜花壇」は、やはり「非対称性」を大きな特徴としつつ、「余白を生かした構図」や、「抽象化した装飾的表現」を取り入れたものと言えます。
右図は、冨手一氏が所有していた「蔓草花壇」の図ですが、南斜花壇のコンセプトをそのままに、やや小ぶりにしたものです(伊藤光弥著『イーハトーブの植物学』より)。全体は不規則で非対称的ですが、細部は幾何学的で「定型的」な部分もあります。蔓草をかたどったという形象は、まさに「抽象化した装飾的表現」と言えるでしょう。
賢治の詩においても、「浮世絵的」と感じさせる風景描写がしばしば見られ、これはこれでまた検討課題でしょうが、とりあえず賢治の空間表現的感性に、非対称の美学も含めて浮世絵の世界が反映しているのではないかなどということを、ノーベル賞の話題の余白につらつら考えてみたりしました。
それにしても、南部陽一郎氏などは、お若い頃から世界的な研究業績を次々と挙げてこられ、今回の受賞も遅すぎたくらいだということですが、今になってその授賞理由が47年も前に発表した「対称性の自発的破れ」の理論というのも、何か不思議な感じがします。現在から振り返れば氏の業績は、その後の「量子色力学」への貢献や「ひも理論」の創始者の一人であることなども、十分に授賞理由に値すると思うのですが・・・。
今回、(やや意識的に?)「対称性の破れ」を共通テーマとして日本人3人を選んだスウェーデン科学アカデミーの決定に、100年あまりも昔にヨーロッパで流行した「ジャポニズム」と「非対称の美学」の残り香を感じるとしたら、あまりにも穿ちすぎでしょうか。
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