先週花巻に行った時に、イーハトーブ館で開催されていた「賢治研究の先駆者たち(4)―高村光太郎展」を、興味深く見ました。
なかでも印象的だったのは、高村光太郎も若い頃に、日蓮や田中智学に傾倒していた時期があったという点です。以下は、光太郎の随筆「父との関係」から、家族と自分の宗教について記した部分です。
父には宗教心がなかつたともいへないが、母と同じやうに、それはただ民間信仰の気休め程度のもので、観音も拝み、稲荷も拝み、不動も拝み、ただ家内安全無事息災をいのるといふ次第で、伝承の迷信や禁忌などは一ぱい持つてゐた。祖父などは天狗の存在を確信してゐて、私を小田原の道了権現に連れていつたりした。私はさすがにさういふ事からだんだん脱却し、それと同時に真実の宗教を求めて苦悶した。一時は田中智学の法華経に熱中して本門寺の説教に通つたり、一時は禾山和尚の臨済禅に傾倒してからたち寺の提唱に耳を傾けたり、又キリスト教に心をひかれて植村正久の家を訪ねたりした。しかしどうしても宗徒となることが出来ず、心を痛めながら青年の彷徨をひとりで重ねてゐた。
そして、高村光太郎の東京美術学校の卒業制作は、「獅子吼」と題した彫刻でした。(「東京藝術大学美術館」より)
元来は「獅子吼」とは、釈迦が説法をする様子を表す言葉なのだそうですが、転じて高僧の説教の様を喩えたり、とりわけ現在の日本では、日蓮の説法を指すことが最も多いでしょう。(佐渡へ配流される日蓮が滞在したとされる長岡市の法福寺には、「日蓮聖人獅子吼の銅像」があります。)
高村光太郎の作品の英語名にも、‘Awe-arousing missionary (Nichiren)’とありますから、この像は若き日の日蓮を造型したものであることに疑いはありません。直訳すれば、「畏敬を喚起する伝道者(日蓮)」ということになります。
身体全体からあふれるような強い意志と、射抜くような鋭い視線が印象的です。早くからロダンに憧れていたという話のとおり、人間の内面や精神性を表現しようとする意図が強く表れているように思います。
その素材がたまたま「日蓮」になったのは、光太郎の、「田中智学の法華経に熱中して本門寺の説教に通つたり・・・」という時期が、ちょうど東京美術学校の卒業制作の頃と重なっていたということでしょうか。
これは光太郎が20歳の作ですが、賢治も同じ年齢にはすでに法華経に目ざめ、保阪嘉内を通して田中智学についても知るようになっていた頃かと思われます。
ただ、賢治はその後も法華経を一筋に護持しつづけたのに対して、光太郎は彷徨の後に、最終的には宗教を越えて自然と一体化するような独自の境地に至ります。
そのへんの違いが、最も大切な女性(賢治はトシ、光太郎は智恵子)を喪った時の反応の相違にも、表れているような気がします。
かぐら川
こういう報告を読むとすぐ悪い癖が出て、光太郎が訪ねた植村の家とはどこにあったのだろうと考えてしまうのですが、そんなことより確かに光太郎が田中智学に惹かれた一時期があったという事実は興味をそそります。
話は変わりますが、最近犀星の伝記的文章などを読んでいて犀星も光太郎をあのアトリエに尋ねたことがあること、犀星が光太郎にアンビバレントな心の持ちようをしていたことなど、賢治との比較でとても刺激的なことでした。また犀星が、「我が愛する詩人の伝記」に、ひとこと賢治についてふれているのも印象的でした。
拙日記、戯れにブログの形でも書いてみました。はてどうなることでしょう。
hamagaki
かぐら川さま、コメントありがとうございます。
新しい「ブログ」、拝見しました。心が静まるような美しいデザインですね。
さて、光太郎も賢治も(少なくとも一時)田中智学に傾倒していたのは、不思議な偶然のようでもあり、あるいは当時の「日蓮主義」の流行ぶりを考えると、いっぱしの知識人であれば通り抜けざるをえなかった、ある種の関門だったのだろうかと思ったりもします。
犀星と光太郎の関係、犀星の賢治へのひとこと、興味深いですね。またご教示ください。