旅行の準備・今昔

 先日、神戸へ行ったついでに、大阪にも少し寄ってきました。一つは、賢治たちが1916年(大正5年)の盛岡高等農林学校修学旅行において見学しようとした、「大阪府立農学校」の跡地です。
 今は区役所や警察署などがあって、大阪市生野区の中心部になっているこの場所は、当時は東成郡鶴橋町の一角でした。現在、「生野区民センター」の前には、下のような記念碑が建てられています。

大阪府立農学校跡記念碑

 碑に刻まれている文は、下記の通りです。

この附近
 大阪府立農学校跡
  行け猪飼野の畦伝ひ
  學の道を履みわけて
  朝に鍬の柄をとれば
  こゝに治産の基あり

大阪府立農学校は大阪府立大学農学部の前身で 近代農業の指導者を養成するため 国の農業振興政策に基づき大阪府が全国にさきがけて明治二十一年堺市車之町に開校したが同二十三年十一月 当時の東成郡鶴橋村大字岡(現在の生野区勝山南三丁目と勝山北三丁目の一帯)の地に移転し 大正十五年九月 市街化の進行により堺市舳松村に再移転するまで優美な洋式木造建築の本館を擁する画期的な教育施設であった
農学校の開設はこの地に近代の幕あけを告げ 生野区発展の糸口になった 現在 区役所をはじめとする官公署の諸施設や府立桃谷高等学校をはじめとする校園等が立ち並び 他区に例を見ない行政文教の地となっているのも大阪府立農学校の遺産にほかならない

 ということで、農学校がその後の地域発展の端緒となったということなのです。文中に「優美な洋式木造建築の本館」と書かれているのは、ちょっと小さな写真ですが、下のようなものでした。

大阪府立農学校本館

 ところが、賢治たち一行は、この大阪府立農学校を見学しようと、わざわざ天王寺駅から2kmあまりを歩いて訪ねたのですが、この日は「休校」だったので、見学はできず空振りに終わったということなのです。
 以下、「農学科二年修学旅行記」より、賢治の同級生森川修一郎による3月25日の記載から。

此処(注:農事試験場畿内支場)にて中食を終へ、直に場長殿に送られて柏原発車大阪天王寺着直に府立農学校に向ふ。幸か不幸か其日同校は休校中に付き、唯校舎や農場畜舎等を歩いたのみで、大した得る所もなかつた。が唯府立として其設備の完全なのに驚いた。我校にも大きな畜舎や温室等欲しいと思つた。

 「幸か不幸か・・・」という表現が、なんか面白いですね。学生も疲れていて、見学が中止になって実はホッとした本音が出ているのでしょうか。
 それにしても、国立の盛岡高等農林学校の方が、府県立の農学校よりも明らかに「高等」で、格としても上であるにもかかわらず、当時の大阪府立農学校は、高農生を羨ましがらせるほどの設備を擁していたわけですね。上の記念碑文が謳う「画期的な教育施設」というのも、単なる自画自賛ではなかったわけです。


 ということで、賢治たちの修学旅行における一つの顛末はこれで終わりなのですが、ちょっとここで私として気になることは、当時の修学旅行においては、このように「行ってみたが見学できなかった」というエピソードが、なぜかよく目に付くのです。
 この年の関西地方修学旅行においても、上記の大阪府立農学校だけでなく、3月20日には東京で「関東酸曹株式会社に行つたけれども、本年一月より同所縦覧謝絶との事で在た」ことがあり、またその翌日に駒場の農科大学に行ったが、「農科大学はあやにくの休日、内部が見られなかつたのが残念」だったと記録されています。
 また、賢治が花巻農学校に在職中の北海道修学旅行においても、札幌で「農事試験場参観の予定なりしも時期未だ早く見学その効なきを以て直ちに電車に乗じ中島公園の植民館に赴く」(「〔修学旅行復命書〕」)との記載がありました。

 今の時代の修学旅行だったら、担当の先生があらかじめ綿密に調査をして、見学を希望する施設があれば必ず先方に予約をしてから本番の旅行に臨むと思うのですが、当時は、「何月何日に修学旅行の団体で伺いますのでよろしく」というような事前連絡さえ、あまりしていなかったのかと考えざるをえません。
 現代の情報化社会とは、人々が旅行に臨む態度や考え方も違っていたのでしょうが、「修学旅行」ですら上のような状況なのですから、一般人の80~90年前の「旅行」というのは、なおさら現代ほどには、事前の準備や計画の周到さにはこだわっていなかったのだろうかと思ったりします。

 そして、そういう風に考えてみると、1921年(大正10年)に賢治と父政次郎が二人で関西旅行をした際、遅い時刻から比叡山を越えて京都に着くのに苦労したり、聖徳太子廟のある叡福寺の場所を当日の朝になってから「中外日報社」に尋ねに行ったり、そして結局はその叡福寺に行かずに終わってしまったり、今の私たちから見たら何か「場当たり的」で「出たとこ勝負」の旅行をしているように見えるのも、当時にしてみればさほど変わったことではなかったのかもしれない、などと思ったりするのです。