『宮沢賢治研究資料集成 第7巻』の中に、「人間宮澤賢治」と題した対談が収録されていて、これはもとは新岩手社『東北文庫』(昭和26年2月号)に掲載されていたもののようですが、対談のメンバーが今から思うと凄くて、堀籠文之進、白藤慈秀、阿部繁(以上当時花巻農学校教諭)、藤原嘉藤治(当時花巻女学校教諭)、羽田正(当時郡視学)、森荘已池、という面々です。
その内容は、読む人によっていろいろ興味深いところも尽きないと思いますが、今日はその中でほんのささいなことを一点だけ。
白藤慈秀氏が、賢治がよく農学校教師時代に「盛岡劇場」まで歌舞伎を見に行って、終わると盛岡から花巻まで夜道を徒歩で帰ってきていたというエピソードを紹介した後で、
この夜中に歩く時詩を書きます。矢沢村の胡四王山やキーデンノに夜中に寝てきたと言つたのをきいたこともあります。
と述べています(同書 p.417)。
「キーデンノ」というのは、「〔何かをおれに云ってゐる〕」(「口語詩稿」)には「キーデンノー」として登場しますが、賢治が「経埋ムベキ山」の一つにも選んでいる「旧天王山」のことです。
賢治の作品の中で、旧天王山が出てくるのは、上の「〔何かをおれに云ってゐる〕」と、「或る農学生の日誌」の中で主人公が土性調査をする場面で、「それからは洪積層が旧天王(キーデンノー)の安山集塊岩の丘つゞきのにも被さってゐるかがいちばんの疑問だったけれどもぼくたちは集塊岩のいくつもの露頭を丘の頂部ちかくで見附けた」とあるくらいです。
賢治自身が、この小さな丘のような山に対してどれほどの思いを抱いていたのか、私はこれまでよくわからなかったのですが、農学校教師時代にこの山や胡四王山で、野宿をしてきたこともあったことが、上の白藤氏の発言からわかります。
後に死の床で、賢治がこれらの山を「経埋ムベキ山」に選定した背景が、これによって少しだけ理解できたような気がしました。やはり彼にとってこれらの山は、その懐に抱かれて夜一人で寝てみるほど、「馴染みの山」だったんですね。
あと、『新宮澤賢治語彙辞典』では、「キーデンノー」について、「キュウテンノウを訛って、しかも中国ふうにシャレて言ったものかと思われる」とありますが、少なくともこの言葉が賢治独自の造語(や独自の訛音)ではなくて、白藤氏にも共有され、おそらく地元での呼び名として当時は通用していたものであったことも、上記発言は示唆してくれているように思います。
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