今日12月20日は、賢治が生前出版した唯一の童話集『注文の多い料理店』の「序」に、日付として記入されている日にあたります(=大正十二年十二月二十日)。
賢治が、「これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを」願ったその日に、私はまた伏見区深草の龍谷大学へ行って、その「すきとほつたほんたうのたべもの」の、極上の二きれを、いただいてきました。
「劇団らあす」の牛崎志津子さんと牛崎敏哉さんの二人公演による、「鹿踊りのはじまり」と「セロ弾きのゴーシュ」です。
先月も龍谷大学では、宮澤和樹さんの対談が行われましたが、今回も同じく鍋島直樹先生の特別講義という位置づけの企画で、学生さんだけではなく、一般市民にも無料で公開されたものでした。これは何と、魅力的で価値のある催しだったことでしょう。
講義は、まず鍋島さんが「劇団らあす」の紹介をされた後、牛崎敏哉さんによる挨拶+『注文の多い料理店』の「序」の朗読で、幕を開けました(右写真)。
まさに今日という日にちなみつつ、私たちの前に賢治の異世界への扉を開けてくれる、牛崎さんの朗読でした。(なお、写真左下に見えるのは、「鹿踊りのはじまり」のために飾られている「すすき」です。)
そして、いよいよ「鹿踊りのはじまり」の朗読劇です。
「朗読劇」といっても、小道具や活発な演技・振り付けも伴った、限りなく「演劇」に近い本格的な公演です。
牛崎さんがはじめにこの劇を選んだ趣旨を説明されたとおり、活き活きとした花巻の方言による会話が、何といっても魅力的でした。
下の場面は、すすきの陰に隠れた嘉十に、鹿の言葉が聴こえるようになるところです。
また、下の場面は、栃の団子を食べた鹿たちが順に謡う、方言短歌的な讃歌の後半です。
さて一方、「セロ弾きのゴーシュ」の方は、牛崎志津子さんの演ずる動物たちのキャラクターが可愛らしく、魅力的でした。
下の場面は、ちょうど今からゴーシュが、最初の晩の訪問客である「猫」のために、「印度の虎狩」を弾こうとするところです。
下の場面は、郭公がゴーシュとともに音程の練習をする、ちょっとシリアスなところです。
二つの作品を合わせて1時間ほどの公演でしたが、ほんとうに中身の濃いひとときでした。
牛崎さんたちはたった二人で、最低限の小道具のみで、しかも大学の教室の教壇という限定された不便な空間において、しばしの間ながら、まさに賢治ならではの「世界」を現出させてくれました。
大きな階段教室には、時間がたつごとにどんどん人が増えていき、「セロ弾きのゴーシュ」が終わる頃に後ろを見ると、ぎっしり満員になっていました。きっと、たまたま講義ということで見はじめた学生さんたちが、教室から携帯メールか何かで、「これは面白いから見においで」という具合に、仲間たちを誘っていったのではないかと思います。
素晴らしい公演をしていただいた牛崎敏哉さんと志津子さんのお二人、それから教壇の袖のところで効果音を担当していた息子さん、今回の企画を実現して下さった鍋島直樹さんに、心より御礼申し上げます。
雲
「鹿踊りのはじまり」は、まだ、読んでも、ぴんとこない所があります。
「セロ弾きのゴーシュ」も、自分が、ゴーシュの立場にたった時、やっと、わかりかけてきて、好きな作品に、なりました。
HAMAGAKIさん、何度も、行けて、いいな。
冬至だそうですね。
ゆず湯に入ろうと、ゆずの皮を買って、用意しています。
かぼちゃを食べることを、忘れていて、今日、教えられましたが、丸いものだったら、太陽みたいで、元気になるそうです。
初めて聞きましたが、じゃがいもと玉ねぎを使って、野菜スープを作りました。
雨は降るし、めっちゃ寒いし、お体に、充分気をつけて。
hamagaki
雲さま、コメントをありがとうございます。
京都では、冬至にはカボチャ(ナンキン)だけでなくて、名前に「ん」が2つ付いている食べ物(「◯ん×ん」)を7つ食べるという風習があり、一昨日に行ったおでん屋さんでも、「ナンキン」「人参」「蓮根」「金柑」「寒天」「銀杏」「ポンカン」をお皿に盛って出してくれました。元来は、最後のがポンカンではなくて「うんどん(うどん)」だったようですが。
そこで、他に「冬至に食べたらよさそうなもの」があるか、おでんを食べながら考えていました。思い浮かんだのは、「あんパン」「仁丹」「ワンタン」「タンメン」など・・・。
日本的な冬らしいものは、なかなか出てきませんでした。(笑)
雲
京都の方だったのですか。
にんじんは、野菜スープに入れて食べましたよ。
珍しく、わが家の、キンカンの実がたくさんなっています。
おでん屋さんで、不思議ですが、冬至だからなのですね。
病院で、母の処置が終わる間、「宮沢賢治を読む」の中の、「銀河鉄道の夜」の続きを読んでいました。
子どもの頃は、あまり、なじめず、”ケンタウル祭”の所に、しおりがはさまっていたので、また、読みはじめました。
下の欄のコラムに、十字架で始まり、十字架で終わるという箇所があり、高瀬露さんを、ふと、思い出しました。
心とか、気持ちというのは、自分でも、わからなくなる時があるから、ましてや、他人の気持ちは、思いはかっても、思いやっても、わからないものなのかもしれないですね。
あんパン、仁丹・・・になるくらいなら、「たわいないのお」で、許されますが。