大澤信亮「宮澤賢治の暴力」

 第39回新潮新人賞を受賞した評論、大澤信亮氏の「宮澤賢治の暴力」を読みました。 現在発売中の、『新潮』(11月号)に掲載されています。

『新潮』2007年11月号 新潮 2007年 11月号 [雑誌]
新潮社 2007-10-06
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 タイトルの「宮澤賢治の暴力」というのが、いかにも刺激的です。正直言うと読み始める前の私は、もう少し穏当な題名はないものか、などと思っていたのですが、読み終わってみると、これは奇を衒って付けたものでも何でもなく、内容から考えればきわめて本質的な題名だったのです。
 あるいは、同号に掲載されている、著者の「受賞記念原稿」を読むと、その書き出しは「最終選考に残ったとの連絡を受けた日に「受賞の言葉」を書き上げた。」であったり、「受賞の知らせを受けても喜びより至当の気持ちが強く…」と述べたり、また「私はこの作品に絶対の自信がある。」と言い切ったり、やはりかなり挑戦的で思い入れが凄いのです。しかし、これもやはり評論そのものを読むと、内容はその思い入れと同じくらいの重さがあると、感じざるをえませんでした。

 これは、賢治に関する「研究論文」ではなくて、あくまで「評論」です。そしてその対象となっているのは、賢治の作品よりも、賢治という人間の思想や生き方です。というよりも、賢治の思想や生き方に迫ることを通して、人間の普遍的な問題としての「暴力」について考究しようとしたものと言えます。
 もちろん、宮澤賢治という人が、実際に他人に対して暴力的であったなどということは露ほどもありませんし、その正反対に、暴力をひたすら忌避し排除しようとして生きた人です。動物の命を奪うことさえ避けるために、菜食主義を実践したほどです。

 しかしだからこそ著者は、「暴力を完全に否定していくとどうなるか」ということを突き詰めていくために、宮澤賢治を題材としたのです。「よだかの星」において、よだかは「殺される側」に立ってみて、それまで自分が多くの生き物を殺してきたことに慄然とし、自ら死のうとします。そして星になってしまいます。
 しかし、このような「自己犠牲」も、実は「自分自身に対する暴力」です。「グスコーブドリの伝記」や「銀河鉄道の夜」など、やはり自己犠牲を扱った作品は他にも数多くあるばかりでなく、賢治の人生そのものも、多分に自己犠牲的というか自己破壊的な側面があって、それは賢治ファンにとっては、どうしても痛ましく感じられてしまうところです。
 他者への暴力の否定は、自己への暴力となるしか道はないのでしょうか。

 例えばこのような問題について、キリストやカントやドストエフスキーも参照しつつ、若々しい考察を推し進めていったのが、この評論です。一つの「賢治論」としてももちろん読めますが、より普遍的な問題を扱っています。
 具体的な内容は、実際に読んでいただくことをお勧めするとして、「受賞記念原稿」の次のような部分は、著者が人間の「暴力」についてこだわる経緯の一端を垣間見せてくれます。

 宮澤賢治について腰を入れて考え始めて十年になる。大学では詩人会というサークルに入っていた。賢治を読み直したのもその頃だったと思う。かつて高校時代に振るってしまった暴力の経験から、私は自らに巣食う暴力の謎に囚われていた。人間にとって暴力とは何か。最終的な審級が物理的な暴力によって決定されているなら、言葉など暴力を担保にしたお喋りでしかないのではないか。だが言葉とはその程度のものなのか。私は「よだかの星」に自らの暴力性を徹底的に追い詰める者の過激さを見ていた。

 その文章からは、一徹で生真面目で怖いほどの雰囲気を醸し出す著者ですが、次のような側面もあってホッとします。

受賞の知らせを受けた後、近所の蕎麦屋で恋人と、賢治の好んだサイダー+天麩羅そばの組み合わせを食べた。翌日は新宿の馴染みの焼肉屋で、友人たちと特上のカルビ・タン・リブロースを食べ、飲んだ。同席してくれた杉田(引用者注:「フリーターにとって「自由」とは何か」の著者)は「食べることの暴力性を論じた人間がこれだよ」と呆れ気味に笑っていた。