岩手丸

 時間がなくて、なかなか新たな記事の書き込みもできないうちに、日々が過ぎていきます。
 ところで、このブログトップページの右カラムの下の方に、「賢治関連ブログ」という欄を新設して、「イーハトーブ・ガーデン」、「壺中の天地」、「「猫の事務所」調査書」、「宮沢賢治と「アザリア」の友たち」という4つのブログへのリンクを載せさせていただきました。すでに、ご存じの方も多いかもしれませんが、いずれも個性的でとても興味深いブログで、お薦めです。

 あと、たまたま先日、『岩手県の百年』(山川出版社)という本を見ていたら、北上川に就航していた蒸気船「岩手丸」の写真が載っていました。

岩手丸(狐禅寺の船着場に停泊)

 『【新】校本全集』年譜篇によれば、1912年(明治45年)5月27日、賢治たちは盛岡中学の修学旅行に出発します。

五月二十七日(月)修学旅行に出発。町田、後藤、森田教諭引率、四年生八四名。午前三時三〇分盛岡駅発。一関へ出、北上川畔狐禅寺まで徒歩四キロ、川蒸気外輪船岩手丸七〇トンにのり、石巻へ向かい、下船後、日和山に登り海を見る。石巻一泊。

 上写真の「岩手丸」は、「北上廻漕会社」が明治18年に発足して、その年の5月に新造された、まさに出来たての姿です。後ろに延びる橋は、狐禅寺村の「千歳橋」ということで、まだご覧のように欄干は船に載った「船橋」になっています。写真の岩手丸が、賢治が乗ったものと完全に同一なのかはわかりませんが、やはり立派な「蒸気外輪船」ですね。
 小川達雄著『盛岡中学生 宮沢賢治』(河出書房新社)には、「しかしその船便も明治二十三年に通った鉄道(東北線)の集客力に負けて、この修学旅行の翌年には運航中止に立ち至った。従って賢治たちはその航路が間もなく閉じようとする頃の船旅を経験したことになる」と書いてありますが、実際にはこの北上川航路は、運行会社を転々と変えながらも、蒸気船は1921年(大正10年)頃、その後は発動機船によって1936年(昭和11年)頃までは、細々と続いていたようです。

 ところで、1887年(明治20年)には、当時20歳の幸田露伴が、やはりこの「岩手丸」で狐禅寺から石巻へ川を下ったことを、今回検索しているうちに知りました。当時、電信技師として北海道の余市に勤めていた露伴は、突然に職を放棄して東京に逃げ帰るのですが、その道中を記したのが、「突貫紀行」(青空文庫より)という彼の最初期の作品です。
 見る物聞く物、好き勝手に評したり、あるいは一日読書をしていたり、歩きすぎて足が痛くなって弱音を吐いたり、妙に調子がよくてどこかやけになったような面白さがあります。盛岡には一泊滞在して、「久しぶりにて女子らしき女子をみる。…中学は東京の大学に似たれど、警察署は耶蘇天主堂に似たり。」などと書いていますが、花巻は車であっという間に通りすぎてしまいます。
 そして「岩手丸」に乗るところは次のように描写されています。

 十八日、朝霧いと深し。未明狐禅寺に到り、岩手丸にて北上を下る。両岸景色おもしろし。いわゆる一山飛で一山来るとも云うべき景にて、眼忙しく心ひまなく、句も詩もなきも口惜しく、淀の川下りの弥次よりは遥かに劣れるも、さすがに弥次よりは高き情をもてる故なるべしとは負惜みなり。登米を過ぐる頃、女の児餅をうりに来る。いくらぞと問えば三文と答う。三毛かと問えばはいと云い、三厘かといえばまたはいと云う。なおくどく問えば怫然として、面ふくらかして去る。しばらくして石の巻に着す。

 文章は流麗でも、餅売りの少女をからかっているところなど、まだ20歳の、やはりこっちも「男の子」ですね。