先日アップした「大正期花巻の鉄道路線図」において、青い線で表した「岩手軽便鉄道」が右上の方向へ走っていくのを追って、画面をマウスでたぐり寄せるようにドラッグしていってみて下さい。「イギリス海岸」のちょっと上流あたりから、しばらく線路が北上川に沿って、直線的に走る箇所があります。距離にしたら、だいたい800mくらいでしょうか。
ここを列車が走る時は、さぞ気持ちよかっただろうなと以前から私は思っていて、そして「岩手軽便鉄道の一月」という作品は、このあたりの情景を描いたものだろうかと、とくに根拠もなくぼんやり考えたりしていました。
すると、伊藤光弥氏の『森からの手紙 宮沢賢治 地図の旅』(洋々社)に、この作品の舞台に関する詳しい考察が載っていました。
まず、下記が作品の全文です。
岩手軽便鉄道の一月
一九二六、一、一七、ぴかぴかぴかぴか田圃の雪がひかってくる
河岸の樹がみなまっ白に凍ってゐる
うしろは河がうららかな火や氷を載せて
ぼんやり南へすべってゐる
よう くるみの木 ジュグランダー 鏡を吊し
よう かはやなぎ サリックスランダー 鏡を吊し
はんのき アルヌスランダー [鏡鏡鏡鏡]をつるし
からまつ ラリクスランダー 鏡をつるし
グランド電柱 フサランダー 鏡をつるし
さはぐるみ ジュグランダー 鏡を吊し
桑の木 モルスランダー 鏡を……
ははは 汽車(こっち)がたうたうなゝめに列をよこぎったので
桑の氷華はふさふさ風にひかって落ちる注:7行目の[鏡鏡鏡鏡]は、一文字分に「鏡」の字が2列2段に計4個書かれたもの。
この作品の舞台に関して、佐藤寛氏は、次のように書いておられました。
私の想像にして誤りなければ、この詩は鳥谷ヶ崎駅と似内駅の中間 ―国鉄になってからはこの区間の路線変更で、まったく違った方向を走っていますから、その当時の情景を車窓に再現することはできなくなった訳です― 即ちあの四十分の一勾配を下って瀬川を渡り小舟戸からイギリス海岸の付近に差しかかかった風景を詠んだものと考えられます。(『四次元』昭和26年3月号)
これは、私がぼんやり想像していたこととだいたい同じような感じなのですが、これとは異なって、伊藤光弥氏は次のような考察をされます。
「岩手軽便鉄道の一月」には、「ぴかぴかぴかぴか田圃の雪がひかってくる」の次に「河岸の樹がみなまっ白に凍ってゐる」情景が詠まれています。このとき、賢治は花巻に向かう上り線(西行きの列車)に乗っていたのではないでしょうか。最初に目にした光景が田園風景であり、次に北上川の風景が詠まれているからです。また、もし反対の下り線(東行き)に乗っていたとすれば、北上川は前方に見えてくるはずで、「うしろは河が……ぼんやり南へすべってゐる」では状況に合わないと思うのです。
さらに伊藤氏は、大正時代の「五万分の一地形図」をもとにして、次のように推理を続けられます。
旧版地図(五万分の一地形図「花巻」)では、小舟渡付近で軽便鉄道の線路が電信柱の列と交叉するところがあり、電線が小舟渡から北上川を越えて対岸の旧矢沢村役場の方向に延ばされていたことがわかります。
(中略)
賢治の時代には、軽便鉄道上り線(西行き)の列車は小舟渡付近で電線の下をくぐってから瀬川鉄橋を渡り、鳥谷ヶ崎駅に向かいました。地図を見ると、瀬川鉄橋の下には桑畑が広がっています。ということは、軽便鉄道が電柱の列(フサランダー)をくぐったあとで桑畑(モルスランダー)を横切ったことになり、これは「岩手軽便鉄道の一月」に描かれた電柱や桑畑の順序と一致しています。(『森からの手紙』p.217-218)
で、下の図が、大正時代の五万分の一地形図「花巻」の該当部分です(同書より)。
文中で出てくる「電線」とは、「花巻町」の「町」の字の下あたりから、右に向かって細い線が出て、岩手軽便鉄道と北上川を越え、対岸ではやや右下向きに角度を変えて走っている線のことですね。また、「瀬川鉄橋の下には桑畑が広がっています」というのは、小さくてちょっとわかりにくいのですが、「花巻川口町」の「花」の字の周囲に、3つほど「」という記号がありますが、これが桑畑の地図記号です。
というようなわけで、伊藤光弥氏の考察は、当時の地図に基づいた実証的なものであり、とても説得力があるのですが、以前からの私の印象とは、少し食い違ってしまう部分があるのです。
というのは、作品を読んでいくと、その2行目には「河岸の樹がみなまっ白に凍ってゐる」とあって、北上川の河岸に並んでいる樹々が、列になってみんな白く凍っている情景がまず目に浮かんできます。そして、4行目から10行目にかけて、列車が走るにしたがって次々と作者の目の前に現れる木(と電柱)に、作者は陽気にあいさつを贈りつづけます。
2行目で描かれた「河岸の樹」が頭にあると、最後から2行目の、「汽車(こっち)がたうたうなゝめに列をよこぎった」という箇所に出てくる「列」とは、北上川の河岸に並ぶ樹々の「列」なのだろうと感じるのではないでしょうか。少なくとも私は、これまでそう思ってきました。
しかし、伊藤氏の解釈では、賢治が順々にあいさつしている樹々は、河岸に沿って並んでいるのではなくて、北上川から少し離れた内陸部に立っていることになるのです。ずっと河岸でないといけないなんていうことはないのですが、樹々が河岸に列をなして並んでいた方が、私としては何となく楽しい気がしていたのです。
でも、伊藤氏が書いておられるように、たしかに列車が川に沿って走っていたのでは、「うしろは河がうららかな火や氷を載せて/ぼんやり南へすべってゐる」という描写に合わないような気がします。
ここで、この問題について考えていて私がふと思ったのは、この「うしろは」という言葉は、伊藤氏が解釈されたように「作者が乗った列車の背後では」という意味なのではなくて、前の2行目にある「河岸の樹がみなまっ白に凍ってゐる」を受けて、「樹の背後では」という意味なのではないかということです。車窓から見て、まず河岸の凍った樹の列があり、その向こうを川が流れている、という情景です。
考えてみると、伊藤氏の解釈では、列車の背後にある川は、現在の作者の目には見えていないはずで、その川が「うららかな火や氷を載せて/ぼんやり南へすべってゐる」と現在形で具体的に描写するのは、ちょっと不自然な感じもしてきます。
また、「グランド電柱 フサランダー」について伊藤氏は、地図に記されている送電線と軽便鉄道が交叉する場所を考えておられますが、このような地形図に記載される「送電線」とは、普通に町で見かける電線(や電柱)ではなくて、もっと大規模な高圧線なのではないかと思うのですが、どうなのでしょうか。賢治の時代にどうだったか詳しくはわからないのですが、現在なら鉄骨で組み立てられた巨大な「鉄塔」が電線を中継していて、「電柱」とはまた別のものになっています。
ちなみに、「グランド電柱」という作品では、「花巻大三叉路」と賢治が呼んだ、向小路のあたりの電柱が登場しますが、上の地図ではこのあたりには送電線は記載されていません。
つまり、少なくとも地形図上に送電線が記入されていない箇所にも、賢治の言う「グランド電柱」は存在したわけですから、「グランド電柱 フサランダー」の位置について、「送電線と軽便鉄道の交叉点」に限定する必要はないと思われます。
ただ、最後から2行目の「汽車(こっち)がたうたうなゝめに列をよこぎった」にある「列」というのを、河岸に並ぶ樹々の「列」と考えると、それを汽車が「よこぎ」るのは、上の地形図で言えばいちばん右上の端のところ、軽便鉄道が北上川を渡る直前ということになろうかと思います。そうなると、冒頭に挙げた「北上川併走箇所」からは、そこまでの間に「似内駅」も存在することになり、ちょっと距離が遠いように思われることが、やや難点です。
まあこれは、簡単に結論は出ない問題かと思います。ただ私としては、北上川と河岸に並ぶ樹の列に沿って、作者が乗った列車が走るという情景の方に、愛着を感じるというのが、正直なところです。
中途半端な議論になってしまいましたが、最後にお口直しに、林光作曲による「岩手軽便鉄道の一月」をどうぞ。
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