『未だ見ぬ親』

 今日は、万博公園にある「大阪府立国際児童文学館」へ行って、エクトル・マロ作/五来素川訳『未だ見ぬ親』(東文館,1903)という本を見てきました。その後、『家なき子』という訳題の方で有名になるお話ですね。
 宮澤賢治が小学校3年の時(1905)に担任教師だった八木英三教諭は、教室にこの本を持ってきて子供たちに読み聞かせ、賢治はとりわけこれを好んだということです。後年になって、賢治は八木教諭に会った時、次のように語ったそうです(堀尾青史『年譜 宮澤賢治伝』)。

私の童話や童謡の思想の根幹は、尋常科の三年と四年ごろにできたものです。その時分先生は「太一」のお話や、「海に塩のあるわけ」などいろいろのお話をしてくだすったじゃありませんか。その時私はただ蕩然として夢の世界に遊んでいました。いま書くのもみんなその夢の世界を再現しているだけです。

 この「太一」の話というのが、実は上記の『未だ見ぬ親』のことでした。『家なき子』といえば主人公は「レミ少年」だったはずですが、訳者の五来素川氏は、『未だ見ぬ親』表紙登場人物の名前や地名などを、日本風に置き換えて訳しているのです。
 「太一」が8才まで育った「シャヴァノン村」は「関谷新田」となり、育ての母は「関谷新田のお文どん」として紹介されるのがまずユーモラスです。
 太一が売られた旅回り一座の「ヴィタリス親方」は「嵐一斎老人」、犬の「カピ」は「白妙丸」、他の2匹は「黒鉄丸」、「小玉嬢」…などと、おもしろい名前を挙げていくときりがありませんが、一方で、国は「佛蘭西」、都は「巴里」であって、舞台そのものを日本に移し替えたわけではないのです。
 太一が倒れていたところを助けてくれた親切な男は、「巴里の在所大野村の植木屋、青木作兵衛と云ふ人」だったことになっていますが、たとえばこういうところに、江戸時代の戯作文学のような香りと、異国情緒も混じったような、独特の雰囲気が醸し出されています。


 さて、この『未だ見ぬ親』を読んで、一つ印象に残ったのは、「山羊が逃げる」というエピソードでした。なにがしかの金を稼げるようになった太一は、育ての母に山羊を贈ろうと考え、市場で山羊を買いますが、相棒の萬吉が近くで喇叭を吹いたのに驚いて、山羊は逃げ出してしまいます。二人はあわてて追いかけますが、山羊を捕まえてくれた人々に家畜泥棒と間違われて、警察に拘留されてしまうのです。
 また、嵐老人が死ぬ間際に、「むかし泊まった競馬場に行ってみる」と言って、太一とシロとともに向かいますが、競馬場には入れず、近くの道端で親方は亡くなってしまうという場面もありました。
 「山羊」にしても「競馬場」にしても、花巻で育った賢治にとっては、まだ見たこともない物だったでしょう。五来素川氏は、読者に馴染みが薄いであろう山羊という動物について、本文中に次のような解説を挿入しています。

 諸君は善く知らないであらうが、佛蘭西邊の百姓が山羊を売ると言ふのは餘程の事である、一體山羊といふ獣は大層柔和しくて、利巧で、乳のたんと出る極調法な動物故、佛蘭西邊の田舎では、諸君位の小いさな児が、二本の角へ打綱を掛けて、路の側や、畑の畔で、草を食はして居るが、能く其の児の云ふことを聞くし、又夕方にでもなると、乳を搾つて、ソップを造るバタにしたり、馬鈴薯を浸して食べたりするから、如何に家内が大勢でも、山羊が一疋ありさへすれば、田舎の百姓の家にしては、先づ食物に不自由は無い


 ところで、レオーノキューストやファゼーロなどといった人物が登場する「ポラーノの広場」には、太一や萬吉や白妙丸が活躍する『未だ見ぬ親』の物語世界とは対照的な、ひんやりとした異国の風を感じますが、舞台装置には共通している部分もあるわけです。
 「風の又三郎」には、「馬が逃げる」場面がありました。しかし、「ポラーノの広場」ならば、逃げる家畜は馬でも牛でもなく、やはり山羊が似つかわしいのでしょう。その山羊が飼われていたのは、レオーノキューストが一人で住んでいる「競馬場」の番小屋でした。
 初めの方に引用したように、賢治が、子供の頃に聞いた話の「夢の世界」を、後の作品に「再現している」と言っていたことが思い起こされます。


 下の画像は、この本に「口絵」として入っていたものです。名前は「太一」でも、姿はやはり金髪の少年ですね。傍らの美しい女性は、旅の途中で出会った「春日夫人」、最後には太一の実の母親と判明する面影です。
 賢治も、おそらく子供時代にこの絵を見て、心を躍らせたのでしょう。

『未だ見ぬ親』口絵