このお正月休みの間に、いくつか宮澤賢治関連の本を読みました。
一つは、梅津時比古著『《ゴーシュ》という名前 《セロ弾きのゴーシュ》論』(東京書籍)。これは、同じ著者による『《セロ弾きのゴーシュ》の音楽論 音楽の近代主義を超えて』の続篇とも言える本で、前著同様、緻密な論が展開されています。
話は、主人公の名前「ゴーシュ」の由来に関する新たな説の提出から出発します。
これまでこの「ゴーシュ」という語は、フランス語の‘gauche’(左の、不器用な、ゆがんだ、etc.)から来ているのではないかという説が最も一般的で、他には「ごうごう」とセロを弾く音の擬音とも関係しているのではないか、という説もありました。
これに対して梅津氏は、今までの説を否定するわけではないとしながらも、ドイツ南部のやや古い方言で「かっこう」のことを‘gauch’と言う事実に着目し、これが、賢治が主人公の名前を考える上で有力な示唆を与えたのではないか、と推理します。そして、賢治がこの珍しい語に遭遇した契機として、『賢治蔵書目録』にも記されている Venus Lieder (Arno Holz)という本を挙げておられます。
アルノー・ホルツというのは、現在は日本では読まれることも稀になった19世紀~20世紀のドイツの詩人ですが、賢治がその原書を所蔵していたことから、思想や文学的方法論においても、いろいろと影響を受けていたのではないかという考察が展開していくのです。なかでも、ホルツが提唱した「秒刻体」という技法(一瞬一瞬、秒刻みのように、細密に対象を描写していくというもの)は、まさに賢治の「心象スケッチ」の一つの特徴と一致しています。
このホルツという詩人には、私もとても興味を引かれましたが、現在その日本語訳は出ていないとのことで、残念ながら私などにはとうてい歯が立ちそうにありません。
実際のところは、賢治が‘gauch’などという稀な単語に出会っていたというのはあくまで一つの仮説に過ぎず、その具体的な根拠は存在しません。しかし、その一点さえ前提とすれば、その向こうに豊穣な世界が開けている、というのがこの本のおもしろいところです。それは、ふつうの論文における「確実さ」とか「厳密さ」とはまた異なった魅力で、幻想性と緻密さが同居しているホルツの詩の世界の雰囲気に、どこか似ているようでもあります。
できればまた明日以降も、読んだ本をご紹介する予定です。
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