今朝起きると、京都の街も雪化粧をしていました。ニュースでは、岩手県の大船渡で最大瞬間風速29mを観測したと報じられ、 気象庁は「大雪と暴風雪に関する全般気象情報」なるものも出していますが、皆さまのところは大丈夫でしょうか。
一昨日引用した
「心相」
という文語詩に出てきた、「こころの師とはならんとも、こころを師とはなさざれ」という「いましめ」は、たとえば日蓮の「御書」の中に、
「相構へ相構へて、心の師とはなるとも心を師とすべからず、と仏は記し給ひしなり。」(「義浄房御書」)、あるいは、
「涅槃経に云く「願て心の師と作て、心を師とせざれ」云云。」(「蓮盛抄」)
として出てくるものです。また、鴨長明による『発心集』の序文も、「仏の教へ給へる事あり、「心の師とは成るとも、心を師とする事なかれ」
と。」との言葉で始まります。これは、鎌倉時代にはけっこう人口に膾炙していた言葉だったのかもしれません。
いずれにしても、最初の出典は、「大般涅槃経」というお経のようです。
「心を師とする」とは、「自分の考えを正しいものとして、他の教えを省みない」(『角川漢和中辞典』)とのことで、
そうならないように気をつけ、自分の「心」をコントロールしなさい、というのがこの「いましめ」の意味なのでしょう。
賢治は、しばしば書簡の中で自らを厳しく反省する言葉を述べています。「私はあの無謀な「春と修羅」に於て、序文の考を主張し、
歴史や宗教の位置を全く変換しやうと企画し、それを基骨としたさまざまの生活を発表して、誰かに見てもらいたいと、愚かにも考へたのです」
(森佐一あて書簡200)とか、「私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」
といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します」(柳原昌悦あて書簡488)と記しているあたりは、賢治が自ら「心を師としていた」
と悔悟するところだったのかもしれません。
いろいろな思いはあったのでしょうが、その若き日には、「たよりなきこそこゝろなれ」とは百も承知した上で、 それが世界を映して万華鏡のように千変万化する様子を、おのれの全存在を賭けて「スケッチ」しようとしていたことを思えば、 この文語詩に見られるような晩年の観照からは、一抹のさびしさも感じてしまいます。
しかし、あらためて上記の書簡など読んでみると、賢治は決して自分の過去を本心から否定しているわけではないという感じもします。 悔恨の言葉を述べながらも、それでもどこか自信を持って、俺は何かをしっかりとつかんでいる、という思いが伝わってくるのです。
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