「黎明行進歌」作成中 今日は、賢治の歌曲「黎明行進歌」の編曲とデータ作成の作業をしていました。「〔修学旅行復命書〕」の1924年5月21日の項に、「四時三分案内の大学生二氏に行進歌を以て謝意を表し札幌を発し車中苫小牧に至る」と記されているのは、きっと賢治や生徒一同でこの「黎明行進歌」を歌い、構内を案内してくれた北大生への挨拶としたのでしょう。私もまだ気分のどこかに、北海道の印象が残っています。 歌曲ファイルは、なんとか数日以内に公開できたらと思っています。 ツイートする この記事に付けられたタグ 修学旅行(42記事) 前の記事 次の記事 コメント つめくさ 2005年8月 8日 21:39 こんばんは。 おっしゃるとおり、 ♪「つ・めーく・さーの・はーなのー」というより、 ♪「つーめくさーの花ーのー」が懐かしいですね。 先週、今度は本格的に?ポラーノの麦酒会社へ行く 機会があり、不思議に懐かしい感じがしました。 「黎明行進歌」はとても楽しみです。 返信 hamagaki 2005年8月 9日 00:48 つめくさ様、こんばんは。 いま取り組んでいる「黎明行進歌」にも、「朝日の酒は地に充てり」という表現が出てきますが、これ以外にも、賢治は朝日の黄金色に輝く光を、しばしばビールに喩えていますね。 「青森挽歌」には、「はるかに黄いろの地平線/それはビーアの澱(おり)をよどませ・・・」という箇所がありますし、「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」では、「東のそらは、お「キレ」さまの出る前に、琥珀色のビールで一杯になるのでした」、「氷河鼠の毛皮」では、「そのとき俄に外ががやがやしてそれからいきなり扉ががたっと開き朝日はビールのようにながれ込みました」などといった具合です。 賢治にとってはこれほどまでに親しみ深いイメージだったようですが、彼自身はあまりビールなど飲んでいたとは思えませんし、誰か周囲によほどビール好きがいたのでしょうか。 いやむしろ、「青森挽歌」にあるようにビーアの「澱」というのは、製品になって瓶詰めされたものにはそれほどは目立たないでしょうから、このイメージは、札幌の麦酒工場で、その製造過程を見学した時の印象なのではないかとも、ふと思いました。 青森挽歌を書いたのは、花巻農学校修学旅行引率の前年ですが、盛岡中学の修学旅行の際(1917年5月24日)にも、札幌でビール会社を見学したということです。 返信 コメントの投稿 コメントの返信 コメント (スタイル用のHTMLタグを使えます) お名前 メールアドレス(任意) URL(任意) サインイン情報を記憶
つめくさ 2005年8月 8日 21:39 こんばんは。 おっしゃるとおり、 ♪「つ・めーく・さーの・はーなのー」というより、 ♪「つーめくさーの花ーのー」が懐かしいですね。 先週、今度は本格的に?ポラーノの麦酒会社へ行く 機会があり、不思議に懐かしい感じがしました。 「黎明行進歌」はとても楽しみです。 返信
hamagaki 2005年8月 9日 00:48 つめくさ様、こんばんは。 いま取り組んでいる「黎明行進歌」にも、「朝日の酒は地に充てり」という表現が出てきますが、これ以外にも、賢治は朝日の黄金色に輝く光を、しばしばビールに喩えていますね。 「青森挽歌」には、「はるかに黄いろの地平線/それはビーアの澱(おり)をよどませ・・・」という箇所がありますし、「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」では、「東のそらは、お「キレ」さまの出る前に、琥珀色のビールで一杯になるのでした」、「氷河鼠の毛皮」では、「そのとき俄に外ががやがやしてそれからいきなり扉ががたっと開き朝日はビールのようにながれ込みました」などといった具合です。 賢治にとってはこれほどまでに親しみ深いイメージだったようですが、彼自身はあまりビールなど飲んでいたとは思えませんし、誰か周囲によほどビール好きがいたのでしょうか。 いやむしろ、「青森挽歌」にあるようにビーアの「澱」というのは、製品になって瓶詰めされたものにはそれほどは目立たないでしょうから、このイメージは、札幌の麦酒工場で、その製造過程を見学した時の印象なのではないかとも、ふと思いました。 青森挽歌を書いたのは、花巻農学校修学旅行引率の前年ですが、盛岡中学の修学旅行の際(1917年5月24日)にも、札幌でビール会社を見学したということです。 返信
つめくさ
こんばんは。
おっしゃるとおり、
♪「つ・めーく・さーの・はーなのー」というより、
♪「つーめくさーの花ーのー」が懐かしいですね。
先週、今度は本格的に?ポラーノの麦酒会社へ行く
機会があり、不思議に懐かしい感じがしました。
「黎明行進歌」はとても楽しみです。
hamagaki
つめくさ様、こんばんは。
いま取り組んでいる「黎明行進歌」にも、「朝日の酒は地に充てり」という表現が出てきますが、これ以外にも、賢治は朝日の黄金色に輝く光を、しばしばビールに喩えていますね。
「青森挽歌」には、「はるかに黄いろの地平線/それはビーアの澱(おり)をよどませ・・・」という箇所がありますし、「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」では、「東のそらは、お「キレ」さまの出る前に、琥珀色のビールで一杯になるのでした」、「氷河鼠の毛皮」では、「そのとき俄に外ががやがやしてそれからいきなり扉ががたっと開き朝日はビールのようにながれ込みました」などといった具合です。
賢治にとってはこれほどまでに親しみ深いイメージだったようですが、彼自身はあまりビールなど飲んでいたとは思えませんし、誰か周囲によほどビール好きがいたのでしょうか。
いやむしろ、「青森挽歌」にあるようにビーアの「澱」というのは、製品になって瓶詰めされたものにはそれほどは目立たないでしょうから、このイメージは、札幌の麦酒工場で、その製造過程を見学した時の印象なのではないかとも、ふと思いました。
青森挽歌を書いたのは、花巻農学校修学旅行引率の前年ですが、盛岡中学の修学旅行の際(1917年5月24日)にも、札幌でビール会社を見学したということです。