昔の修学旅行

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 札幌セミナーの2日目企画「賢治『修学旅行復命書』を歩く」まで、あと1週間となりました。

 こんどの企画は、1924年に賢治が花巻農学校の生徒を引率して札幌を訪れたときの足跡をたどるという試みだそうです。当サイトでは、「修学旅行詩群」というページで、この時に賢治がスケッチした作品を簡単に展望していますが、今日は仕事の合間に、「新校本全集」の年譜などを開いて、来週の遠足の「予習」のようなことをしていました。

 賢治が、学生として修学旅行に参加したのは、盛岡中学校の4年生としての松島・仙台旅行、同5年生としての北海道旅行、盛岡高等農林学校の1年生としての関西旅行の計3回で、引率者としての参加は、上述の1回です。
 盛岡中学時代の北海道旅行では、小樽高商、札幌農科大学(後の北海道帝国大学)、博物館、札幌麦酒会社、製麻会社などを見学しており、これは花巻農学校の修学旅行のコースとかなり共通しています。引率者として旅行の計画段階で、自らの体験をかなり生かしたのでしょう。

 賢治が経験した時代の修学旅行の記録を見ていて、今の修学旅行と比べて感じるのは、(1)相当な強行軍の旅行であること、(2)多少の娯楽もあるが、かなりまじめに諸施設の見学など「勉強」をしていること、(3)しかしその見学の「予約」をあまりしていないようで、しばしば当日に肩すかしを食わされていること、などです。

 「修学旅行博物館」というサイトには、日本独特のこの「修学旅行」という催しの歴史がまとめられており、特にその「戦前の修学旅行」というページからは、昔の修学旅行の様子についていろいろ興味深い経緯を知ることができます。

 これを見ると、そもそも修学旅行というものは、1886年の東京師範学校における「長途遠足」を嚆矢としており、これは兵式体操用の鉄砲を携帯し発火演習などを行いながら行軍をする、という軍隊式の訓練だったということですから、後になっても日程が「強行軍」で行われていたのは、そのルーツからして当然の伝統だったのでしょう。

 「当日に肩すかし」というのは、例えば賢治高等農林時代の関西旅行では、「関東酸曹株式会社へ行ったが1月から縦覧謝絶」と断られたり、「大阪府立農学校に赴いたが休校中」であったり、花巻農学校での引率旅行では、札幌の帝国製麻会社へ行ったが「奇数日は工場の参観は不可」とのことで見学できなかったり、というような例に事欠かず、いろいろ残念な思いをしているようです。
 事前に計画はきちんと立てていたはずですから、手紙でも出して日程を知らせ、相手の了解を取っておけばよいのにと思いますが、不思議なことです。極端な場合、団体が宿泊する旅館まで、現地についてから決めているのかと思える場合さえあります。