「四っ角山」

 ひきつづき、小川達雄著『隣に居た天才―盛岡中学校宮沢賢治』の話題です。

 昨日も書いたように、「第七章 かの人の故郷」の頃の賢治がやはりどうしても気になりますが、この章では「大正三年四月」当時の短歌として、次のような作品が取り上げられます。

山上の木にかこまれし神楽殿
鳥どよみなけば
われかなしむも          (179)

志和の城の麦熟すらし
その黄いろ
きみ居るそらの
こなたに明し           (179a180)

神楽殿
のぼれば鳥のなきどよみ
いよよに君を
恋ひわたるかも         (179b180)

はだしにて
よるの線路をはせきたり
汽車に行き逢へり
その窓明し            (180)

しろあとの
四っ角山につめ草の
はなは枯れたり
月のしろがね           (181)

 賢治がこの年4月に入院中の岩手病院の看護婦に思いを寄せ、引きさかれるような思いで退院してから、だいたい6月頃に詠んだ歌と思われます。なかでも(179b180)などは、古典的な相聞歌のような趣で、私は昔から大好きでした。
 この憧れの看護婦さんは、花巻から北へおよそ20km、盛岡との中間あたりにある日詰という町の出身だったということです。賢治もそれを知っていて、切ない思いを胸に、その日詰にある紫波城(志和の城)を望んで詠んだのが二首目です。「その人がいる」と思う方角をじっと眺めているだけで、さまざまな感情が湧き上がってくる、これこそまさに「初恋」ですね。

 さて、当時の賢治のことを考えていると、これらの歌に詠まれた場所がいったいどこだったのかということは、やはりどうしても知りたくなります。
胡四王神社神楽殿 一首目と三首目に出てくる「神楽殿」は、以前は鳥谷崎神社の神楽殿とする説もあったようですが(六人会『宮沢賢治の短歌をよむ』など)、現在では胡四王神社の神楽殿(右写真)ということで、異論はないようです。賢治が悲しみを胸に登ったこの山は、現在は賢治記念館が建っている、この胡四王山だったのです。
 そうすると、二首目に出てくる「志和の城」は、胡四王山から遠望していることになり、20km離れて麦の熟した黄色を見るというのは、いくら視力がよくてもちょっと不可能と思われますが、ここは賢治がそのように「想像」しているのだ、という解釈でよいようです。

 それでは、五首目に出てくる「しろあとの四っ角山」はどこなのかということになりますが、順番としては「志和の城」が出てきた後ですから、五首の歌を連作短歌と考えると、これも紫波城と読めなくもありません。
 実際に、『隣に居た天才』において小川氏は、これを紫波の城山と考えておられます。まず賢治は胡四王山から城山をはるかに望み、ついに思いを抑えきれなくなって東北本線の線路を一気に20km裸足で走り(!)、彼女の家に近い紫波城までやってきたという解釈です。

 これはこれで、本当にドラマチックな情景ですね。しかし、ここに出てくる「四っ角山」というのは、花巻城址の城山であるというのが通説になっているようで、「宮沢賢治学会・花巻市民の会」編集の『賢治のイーハトーブ花巻』においても、原子朗氏の『新宮澤賢治語彙辞典』においても、そのように説明されています。
 この五首は連作ではなくて、短歌(179b180)と(180)の間には、時間の不連続があるという解釈ですね。

 ちなみに、童話「めくらぶだうと虹」や、その改作形「マリヴロンと少女」は、この「四っ角山」が舞台となった作品です。

・・・その城あとのまん中に、小さな四っ角山があって、上のやぶには、めくらぶだうの実が、虹のやうに熟れてゐました。・・・(「めくらぶだうと虹」より)

 二つの童話に描かれた、「四っ角山」で繰り広げられる切ない「憧れ」のドラマは、上の短歌に詠まれた17歳の賢治の思いの残照を、はるかに映すものだったのかもしれません。