花巻~大迫~平泉(2)

 朝起きると少し曇り空で、江釣子森なども薄くかすんで見えます。今日は、まず「経埋ムベキ山」の第一番、「旧天王山」を目ざします。

 旧天王山とは、小さな丘に対して仰々しい名前ですが、私はつい先日までこの名前からの連想で、次のようなことを考えていました。
 「天王山」というのは、例えば京都府と大阪府の境の羽柴秀吉が明智光秀を破ったので有名な山の場合もそうですが、もともとその山に 「牛頭天王(ごずてんのう)」を祀る社があったことを推測させます。少なくとも西日本では、「天王」 という地名は牛頭天王と関連しているのが一般的です。

 さて、牛頭天王というのは疫病の神様で、「蘇民将来伝説」を媒介として、「蘇民将来之子孫」 というお札を貼っておけば疫病を免れることができるというのが、京都の祇園祭をはじめ全国に分布する「天王信仰」です。そして、 この花巻でも胡四王神社では、名高い「蘇民祭」が毎年行われているではありませんか。
 ですから私が想像したのは、昔のある時期には「旧天王山」に牛頭天王が祀られていた時代があって、 それが後に何かの理由で胡四王山の方に祀り替えられ、現在の胡四王・蘇民祭の起源になったのではないかということです。そうであれば、 「旧天王山」という名前は、胡四王山に対して「旧」の天王山を意味することになります。
 ところが、3日前にたまたま花巻市博物館のホームページを見ていると、この旧天王山の周辺にある縄文時代の遺跡「久田野遺跡」に、 「きゅうでんのいせき」というルビが振られていることに気づきました。そしてこの表記の「きゅうでんの」という方が、賢治の作品中で旧天王山のあだ名として呼ばれている 「キーデンノー」に、より近いのは明らかです。
 つまり、「旧天王」というのは後代の当て字であって、天王信仰とは何ら関係ないのかもしれないということです。 地元の方にとっては当たり前のことだったのでしょうが、限られた資料から勝手に想像していると、思わず翼を広げすぎてしまいます。

 さて、花巻の市街から自転車で朝日橋を渡って少し東へ走ると、旧天王山は宅地開発の只中にありました。鳥居の脇に自転車を停め、 うっそうとした杉木立の参道を上っていくと、その頂上に現在祀られていたのは、「高木岡神社」という社でした。
 その神社の由緒を見ると、いろいろわかりにくいところはあるものの、 結局のところ昔からここは修験道の山伏の修行の山として地元の人から尊崇を集めてきたが、明治初期の廃仏毀釈によって、新たに 「高木岡神社」と称された、ということのようです。しかし「神社」となった今でも仏教的な要素の残存は明らかで、 江戸時代末期に建てられた「法華経の一字一石塔」などというものも、拝殿の横にありました(右写真)。
 はっきりしないところも多くありましたが、とりあえず神仏習合的な要素は感じつつ、次は「経埋ムベキ山」の第二番である、 胡四王山へと向かいました。

 胡四王山では、まず今年の4月にできたばかりの「花巻市博物館」を見学しました。ここには、上で触れた「久田野遺跡」 の出土品も詳しく展示されています。紀元前4000~2000年ごろの縄文の集落跡と推定されているこの遺跡が見つかったのは戦後のことで、 賢治は知る由もなかったはずですが、「経埋ムベキ山」のトップを飾って縄文遺跡の山が選ばれているというのは、賢治を「縄文の末裔」 と位置づけたいという人々なら、喜んで飛びつきそうな話題ですね。
 この後、今日は賢治記念館の方ではなくて、本来の北参道の方から胡四王神社まで登って北上の平野を眺め、さらに次は「経埋ムベキ山」 の第三番である「観音山」に向かいました。

 国道283号線をずっと東に走ると、新幹線の「高松トンネル」の上あたりかと思われるところに、 南に入る観音山への登り口があって、案内板も出ています。ここに自転車を停めて30分ほど登ると、「岩根神社」 という小さな社がありました(右写真)。
 説明板によれば、この神社も昔は「高松寺」という真言宗の大きな寺院だったとのことですが、 神仏分離によって今は神社の形態になっています。しかし現在も「観音堂」が全体の中心施設で、隣には梵鐘もあるなど、 神社としては不思議な構成です。観音堂の横を抜けて、道なき道をさらに登っていくと、ここでも頂上近くに「一字一石塔」 が据えられていました。一字一石塔というのは旧天王山にもありましたが、お経の文字を一字ずつ石に書いて埋めるというもので、賢治の 「経埋ムベキ山」の発想とも通じるものがあります。

 三つの山をまわると足もかなりくたびれましたが、なんとか夕方には花巻温泉にたどり着きました。
 今日一日で、小倉豊文氏が「三山鼎立」と呼んだところの「経埋ムベキ山」の最初の三つを一通り見てみたわけです。とりあえず感じたことは、 二番目の胡四王神社が江戸時代末期までは「胡四王寺」という寺院だったということも含めて、いずれも神仏習合的な山だったということです。 オーソドックスな宗教的本流にはなかったのかもしれませんが、やはりどの山も民俗的な信仰対象となっていたのでしょう。それにしても、 このように人々に育まれていた信仰のかたちを破壊した明治初期の「神仏分離令」というものは、返す返す残念なものでした。