大船渡から花巻へ(3)

 昨夜は東向きの窓のカーテンを開け放して寝たので、今朝は差しこむ日ざしで暑くなって目が覚めました。幸い今日もよい天気です。 例によって、花巻市内はレンタサイクルで移動することにしました。

 朝食をすませると、まず下根子桜の賢治詩碑へ行きました。碑は去年の夏と同じように立っていますが、 広場から東の北上川方面の見晴らしが、なんとなくよくなっているような気がします。木や草の茂り方の違いでしょうか。隣の「桜地人館」 の前にがある文語詩「母」 は私の大好きな作品で、この碑のもっとよい写真を撮りたいと思っているのですが、この時間帯だと逆光になってしまいます。そのうちに一度、 夕方に来てみる必要があるようです。

 自転車で豊沢町の方へ戻ると、賢治生家の南隣りの「蔵」という街角ミュージアムが、もう開館していました。 私がきょろきょろしながら「レンタサイクル」と書いた自転車に乗って通りかかったためか、道ばたにおられた係の女性が、「よろしかったら、 どうぞ」と声をかけてくれたので、よろこんで入ることにしました。冬の間は閉館していたのが、この記事のように4月末から再開していたのです。 今は「賢治祭の歴史展」が開かれていて、ずっと昔の賢治祭のチラシや、最近の様子のビデオなどが展示されていました。 お茶をいただいて少しビデオを見て、お礼を言って表に出ると、次は賢治生家の裏手にある松庵寺に向かいました。
 この浄土宗のお寺は、江戸時代から飢饉の時には粥の配給などの救貧事業を行っていたとのことですが、 大飢饉の年のたびに立てられた供養塔が、境内にたくさん並んでいます。はるか昔のものとはいえ、 「餓死供養」などと大きく刻まれた碑の列には、言葉にならない迫力があります。 子供の頃からこの近所で育った賢治にとってもこれは胸に迫るものだったはずで、「冬のスケッチ」や「病技師」などの作品に登場します。

 さて次は、去年の12月にできたばかりという、花巻市内で最も新しい賢治詩碑を目ざします。市内の「北万丁目」 という地区にあるということなので、自転車で西のはずれに出て、その辺いちめん田んぼの中をを走りまわってみたのですが、 なかなか見つかりません。このあたりは今ちょうど田植えの時期のようで、満々と水が張られて鏡のような田んぼと、 一部にはすでに挿秧がなされた田んぼが混在し、どこへ行っても元気な蛙の声が聞こえます。
 こういう場合は専門家を、と思って「宮沢賢治記念館」に電話をして、詩碑の場所を尋ねると、すぐ親切に教えてくださいました。碑は、 花巻南高校の南側の道端にあり、すぐ近くにはこれまで何回か見にきた「渇水と座禅」の詩碑もあります。碑は、 豊沢ダム建設に生涯を捧げこのあたり一帯の水利に貢献した平賀千代吉という人を顕彰するためのもので、その趣旨にちなんで、 賢治のテキストは「詩ノート」のなかの「〔ひとはすでに二千年から〕」です。 賢治らしい想像力と諦念がただよう静かな作品ですが、「詩ノート」のテキストからの詩碑化は、 ひょっとしてこれが初めてなのではないでしょうか。(下の写真は、碑を裏側から見たところ)

 さて、これを終えてもまだお昼前だったので、こんどははるか南の太田地区にある、清水寺に行ってみることにしました。 日本三大清水の一つとされる由緒あるこのお寺に、賢治は農学校教師時代には教え子を連れて来たり、「農民」 になってからは何かの共同作業の折りに来たりしています。後者の情景は、たとえば「穂孕期」や、「〔みんな食事もすんだらしく〕」 (およびその先駆形「境内」) に描かれていますが、とくに「穂孕期」は私の大好きな作品の一つなので、かねてからぜひ一度その舞台を見てみたいと思っていました。
 昼すぎの暑い日ざしの下を8kmも走り、やっとお寺を囲む森が見えてきた時には、それこそ観音堂に「漂ひ着いた」という感じでした。 その森は、やはり広大な田んぼの中の島のように浮かび、建物はどれも小ぢんまりとはしていましたが、見事なものでした。

 帰りは、まっすぐ北へ行って江釣子森をまぢかに見ながら走りました。市街に戻った時にはさすがにおなかもすいたので、 桜台の方に最近できたラーメン店でラーメンを食べました。あと、いくつか他の詩碑の写真を撮りなおしたものもありますが、 これはまた差し替えた時にここでご報告します。

 花巻駅まで戻って、レンタサイクルを返却して荷物をコインロッカーから出し、新花巻駅から15時59分の新幹線に乗りました。