一時半なのにどうしたのだらう + 糧食はなし四月の寒さ

1.歌曲について

 コミックオペレット「飢餓陣営」全体のあらすじについては、「飢餓陣営のたそがれの中」の解説を参照いただくとして、その劇の前半部は、飢餓に苦しむ兵隊たちの様子と、それと対照的なバナナ大将の登場、という構図になっています。
 兵士たちは空腹に苦しみながらも、けなげに「一時半なのにどうしたのだろう……」などと歌いながら大将の帰りを待ちわび、しかしそのまま何時間もが経過して、ついにお腹が減った兵士たちが限界に達して昏倒したところへ、酔っぱらったバナナ大将が呑気にご帰還あそばす、というストーリーです。
 賢治の台本において、ここまでの一連の流れは、語りとしての「せりふ」は全く用いずに、独唱、二重唱、合唱という「歌」の連鎖によって展開されるところが最大の特徴で、これこそこの劇が「オペレット」と名づけられている所以ですし、各所には賢治が愛好した「浅草オペラ」の影響も見られるようです。

 この箇所の「歌物語」において順次歌われる歌は、『【新】校本全集』等においては、その旋律によって「〔一時半なのにどうしたのだらう〕」と「〔糧食はなし四月の寒さ〕」という二系列の歌曲に分類されているのですが、劇が上演される際には、その二系列が交互に歌われつつ進行するようになっています。
 そこで、ここではそれらが実際に歌われる順序に忠実に、二つの歌曲を統合する形で演奏を行ってみました。
 賢治による脚本には、場面展開を表す「銅鑼の音」や、兵隊の「足踏み」なども指示されていますので、これらも効果音として盛り込んでみると、ぐっと「オペレット」らしくなってきます。

 ところで、この歌曲の楽譜には、例によって若干の課題が残っています。
 これらの歌が、「スイミングワルツ」という当時のSPレコードの旋律に由来していることを突き止めたのは、佐藤泰平氏の貴重な業績なのですが、それとともに『【新】校本全集』に掲載された楽譜は、それまでの全集に収められていた4分の4拍子・付点音符のリズム(下楽譜)とは異なって、8分の6拍子による「3拍子系」のリズムに変更されたのです。すなわち、 という弾んだリズムから、 という「なだらかな」リズムに変えられたわけです。
 このように変更された理由は、『【新】校本全集』において佐藤泰平氏が一貫してとっておられる「替え歌の場合は、とにかく原曲に忠実に」という原則に従って、元のワルツにならって3拍子系にしたものと思われます。しかし私としては、清六氏、シゲさん、クニさんの口唱から阿部孝氏が採譜したという、『旧校本全集』版の楽譜の方が、よかったように思うのです。
 その理由は、「替え歌の再現は、原曲に忠実であるべきか実際の口唱を重視すべきか」という問題について以前に私がブログで書いた考えにもよりますし、何よりも付点音符の のリズムの方が、「一時半なのにどうしたのだろう」のモチーフになっている「時計」の雰囲気を表現するにはうってつけだからです。
 佐藤氏自身、「実際に『飢餓陣営』に出演した教え子たちの歌を聴く機会もあったが、その人たちは軽快なスキップ調の調子で歌っていた」(『宮澤賢治の音楽』)と書いておられますし、これはやはり付点音符で「スキップ調」の旧版楽譜の方が、実際の上演時の歌われ方なのだと思います。

 というわけで、今回の演奏は、『旧校本全集』版(=『ちくま文庫全集』版)の楽譜にもとづいて作成してあります。このページ最下段にも、その旧版の楽譜を掲載しています。
 また、下には歌詞だけでなく賢治が書き込んでいる「ト書き」も載せましたので、劇の情景を思い浮かべながらお聴き下さい。

2.演奏

3.歌詞およびト書き

 幕あく。
 砲弾にて破損せる古き穀倉の内部、辛くも全滅を免かれしバナナン軍団、マルトン原の臨時幕営。右手より曹長先頭にて兵士一、二、三、四、五、登場、一列四壁に沿ひて行進。

曹長「一時半なのにどうしたのだらう。
    バナナ大将はまだやってこない
    胃時計(ストマクウヲッチ)はもう十時なのに
    バナナ大将は帰らない。」

 正面壁に沿ひ左向き足踏み。
(銅鑼の音)
  左手より、特務曹長並に兵士六、七、八、九、十 五人登場、一列、壁に沿ひて行進、右隊足踏みつゝ挙手の礼、左隊答礼。

特務曹長
   「もう二時なのにどうしたのだらう、
   バナナ大将はまだ来てゐない
   ストマクウヲッチはもう十時なのに
   バナナ大将は帰らない。」

左隊壁に沿ひ足踏み (銅鑼)

曹長特務曹長 (互に進み寄り足踏みつゝ唱ふ)
   「糧食はなし 四月の寒さ
   ストマクウヲッチももうちゃめちゃだ。」

合唱「どうしたのだらう、バナナ大将
   もう一遍だけ 見て来やう。」 別々に退場

(銅鑼)
右隊登場、総て始めのごとし。可成疲れたり。

曹長「もう四時なのにどうしたのだらう、
    バナナ大将はまだ来てゐない
    もう四時なのにどうしたのだらう。
    バナナ大将は帰らない。」

左隊登場

   「もう四時半なのにどうしたのだらう、
   バナナ大将はまだ来てゐない
   もう五時なのにどうしたのだらう
   バナナ大将は 帰らない。」

(銅鑼)

曹長特務曹長
  「大将ひとりでどこかの並木の
   苹果を叩いてゐるかもしれない
   大将いまごろどこかのはたけで
   人蓼ガリガリ 噛んでるぞ。」

(銅鑼)
右隊入場、著しく疲れ辛うじて歩行す。

曹長「七時半なのにどうしたのだらう
    バナナ大将はまだ来てゐない
    七時半なのにどうしたのだらう
    バナナ大将は 帰らない。」

左隊登場 最労れたり。

曹長特務曹長
   「もう八時なのにどうしたのだらう
    バナナ大将は まだ来てゐない。
    もう八時なのにどうしたのだらう
    バナナ大将は 帰らない。」

(銅鑼)

立てるもの合唱(きれぎれに)
   「いくさで死ぬならあきらめもするが
    いまごろ飢えて死にたくはない
    あゝたゞひときれこの世のなごりに
    バナナかなにかを 食ひたいな。」

(共に倒る)(銅鑼)

バナナ大将登場。バナナのエボレットを飾り菓子の勲章を胸に満せり。

バナナ大将
   「つかれたつかれたすっかりつかれた
    脚はまるっきり 二本のステッキ
    いったいすこぅし飲み過ぎたのだし
    馬肉もあんまり食ひすぎた。」

4.楽譜

「〔一時半なのにどうしたのだらう〕」


「〔糧食はなし四月の寒さ〕」 

(楽譜はちくま文庫版『宮沢賢治全集』第3巻p.597およびp.599より)