「雨ニモマケズ」詩碑

1.テキスト

雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
  慾ハナク決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベアラ
  ユルコトヲジブンヲ
カンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリソシテワスレズ野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
  小サナ萓ブキノ
小屋ニヰテ東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ西ニツカレタ母ア
  レバ行ッテソノ稲ノ束ヲ
負ヒ南ニ死ニソウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ北ニケンク
  ヮヤソショウガアレバツマラナイカラ
ヤメロトイヒヒデリノトキハナミダヲナガシサムサノナツハオロオロアルキミ
  ンナニデクノボウトヨバレ
ホメラレモセズクニモサレズサウイウモノニワタシハナリタイ
                    宮澤賢治の詩 
                    昭和五十三年丁巳の秋 芳一写

2.出典

〔雨ニモマケズ〕」(「補遺紙片 II」)

3.建立/除幕日

1978年(昭和53年)秋 建立

4.所在地

栃木県足利市福居町1429 宝福寺 橋本家墓所

5.碑について

 栃木県足利市に、宝福寺という曹洞宗のお寺があります。

宝福寺正面

 この宝福寺の一角に、賢治の「〔雨ニモマケズ〕」の詩碑があるという情報をお寄せいただいたのは、この地のご出身の橋本和民さんでした。当該詩碑を建てられたのは、和民さんのご令兄の哲夫さんなのですが、そもそもこの宝福寺とは、鎌倉時代から続く橋本家のご先祖が、菩提寺として建立したお寺なのです。
 境内にある墓地には、橋本家代々の広大な墓所があって、この墓所の一角に、橋本家第20代当主である故・哲夫氏が、1978年(昭和53年)に、この「雨ニモマケズ」詩碑を建てられたというわけです。

 橋本家の始祖・橋本求馬(もとめ)は、上州館林城の家老で、鎌倉時代の末には主君赤木氏に従って、新田義貞の鎌倉攻めに参加したという逸話が残されています。その後の子孫は、三河武士になったり、江戸で醸造業を営んだりしていた時期もあったそうですが、はるか時代が下って明治になると、橋本さんの曾祖父、祖父の時代には、農民救済のために足尾鉱毒事件と闘う田中正造翁を、この足利において物心両面で支える役割も果たしていたということです。
 橋本さんのご令兄・哲夫氏は、1925年(大正14年)生まれで、戦争中は海軍に従軍しておられたということですが、早くから宮澤賢治に親しみ尊崇していたとのことです。終戦とともに郷里へ帰ると、この宝福寺の境内にある集会所で宮澤賢治の研究会を開いたり、村の青年たちを集めて劇団を組織し、自ら脚本を書き演出を行って、「石川啄木の生涯」などという劇を行ったりもしたということです。

 ところで、敗戦とともに世の中の価値観が180度変わるという激動にさらされた時、新たな方向を模索しようとする青年たちが、宮澤賢治の思想を拠り所にしようとするという現象は、全国のいくつかの場所で見られたことだったように思います。
 現在は一関市となった長坂村の青年たちが、紙不足の中で苦労して、「雨ニモマケズ」「農民芸術概論綱要」「ポラーノの広場」などのテキストを手に入れて勉強する中で、谷川徹三揮毫の「農民芸術概論綱要」碑を村に建立していくエピソードや、また北海道の穂別村で、戦後最初の公選村長となった横山正明が、賢治の精神を村に根付かせようと、「賢治観音」なる仏像を発願して建立する経緯などが、私には連想されます。
 賢治の「〔雨ニモマケズ〕」は、大政翼賛会文化部によって、「滅私奉公」など戦争遂行のための思想宣伝に利用され、そのおかげで国民に広く知られるようになった面もありました。そして敗戦とともに、戦前のイデオロギーが一挙に否定され、それまでもてはやされていた多くのものが地に落ちましたが、ただ宮澤賢治の思想には、それでも変わらぬ何かが含まれていることを、当時の若者たちは感じとっていったわけです。
 上の二つの例のいずれも、「農民芸術概論綱要」碑あるいは「賢治観音」というモニュメントとなって、戦後まもない時期から現在まで残されているのがもう一つの共通する特徴ですが、ここ栃木県足利市で終戦後に賢治の研究会を行ったという橋本哲夫氏の思いも、この「雨ニモマケズ」詩碑となって、やはり今もしっかりと刻まれています。

 さて、戦前は大地主だった橋本家も、戦後の農地改革で農地の大部分を手放さざるをえなくなりますが、哲夫氏は賢治の「羅須地人協会」を理想として、農業に身を捧げていったそうです。
 現在、栃木県はイチゴの生産量では日本一なのですが、この「栃木のいちご」の栽培・改良に力を注ぎ、現在の栃木県産イチゴの先鞭をつけた一人が、橋本哲夫氏だったということです。

 そして、晩年になってからも哲夫氏の賢治への敬慕の念はますますつのり、ついに青年時代からの念願だった賢治の詩碑を、橋本家の墓所に建立したのが、昭和53年秋でした。

 下の写真は、詩碑の両脇にある地蔵菩薩の石像と、石灯籠も一緒に写したところです。この二つも、橋本哲夫氏が詩碑と一緒に建立されました。
 この宝福寺には、子供の健やかな成長を守ってくれるという「子育地蔵尊」があり、古くから近隣の信仰を集めてきたということですが、その縁にちなんで、ここにもお地蔵さんが立っておられます。

宝福寺「雨ニモマケズ」詩碑