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聖観世音菩薩立像(通称 賢治観音)

1.テキスト

なし

2.出典

(彫刻家 佐藤瑞圭のまぶたに残る賢治の面影)

3.建立/除幕日

1954年(昭和29年)10月 完成/1955年(昭和30年)10月 御堂安置

4.所在地

北海道勇払郡むかわ町穂別富内91-13

5.像について

 日高山脈の谷あいにある穂別町は、「穂別イーハトーブ」という言葉をキャッチフレーズに、「銀河ステーション」「花壇・涙ぐむ眼」「イーハトーブ文庫」などが作られ、毎年9月14日には「ほべつ銀河鉄道の夕べ」という催しが開かれるという、宮澤賢治を生かした独自の活動が行われている町です。

 生前の賢治にはとくにゆかりのなかったこの小さな町が、このような活動をするようになった背景には、戦後初めての公選村長となった横山正明という人の大きな夢がありました。
 そして通称「賢治観音」と呼ばれるこの仏像が、数奇な運命とともに、それを見つめてきたのです。

   賢治といひ 正明といひ
   土に着きて
   信深き故に 務め務めき

          浅野 晃

 


村長当時の横山正明

1.横山正明村長と穂別TVA計画

 横山正明は、1909年に穂別村で生まれました。家は、酒や砂糖などを売る雑貨商を営んでいました。
 札幌第一中学校を卒業後、横山は3年間北海道庁に勤めていましたが、母の死去に伴って村に呼び戻され、しばらく父のもとで雑貨商の手伝いをしていました。この店の手伝いは、彼にとっては嫌でたまらなかったとのことで、まるで一時の賢治の境遇を思わせます。またこの頃に2年だけ、穂別尋常小学校の代用教員をしたこともありました。

 その後横山は、造材業を行ったり穂別村役場に勤めたりしていましたが、1946年からは食品加工業を始めました。しかし、金銭に恬淡で儲けにこだわらないため、事業家としては不向きだったと言われています。
 また、1945年秋からは、勇払に疎開してきた詩人の浅野晃との交流が始まりました。横山は浅野を師と仰いで、文学や思想に関して、さまざまな話を聞きました。浅野はかねてから宮澤賢治を敬愛していたので、賢治の作品や実践について熱く語り、ここで、横山正明と宮澤賢治の、最初の出会いがありました。
 浅野が書いた「山村問答」という詩には、当時の横山を思わせる青年が登場して、後の「穂別TVA計画」に通じる電化への希望を述べるとともに、まるで賢治のような言葉で村の理想を語っています。

 1947年、新憲法に基づいて初めての村長選挙が行われるにあたり、すでに人望のあった横山は、村の青年婦人層から再三の懇請を受けて、村長選に立候補することになりました。
 これに対して村の有力者たちは、村外からの候補者を立てて、横山に負けることはないと高をくくっていたとのことですが、蓋を開けてみると、結果は横山の圧勝になりました。支持票の多くは、青年婦人層や、ウタリの人々だったといいます。
 村長就任の当初は、反横山派の反撥が強く、さまざまな妨害もあったとのことですが、精力的な道庁陳情による補助金獲得などの実績によって、徐々に声望が高まりました。

 村民の支持を広げた横山は、無月謝制の村立高校の創設、日本で最初のスクールバスの運行、60歳以上を無料診療する村立病院の設置など、教育・福祉分野で、当時としては画期的な施策を次々と実施していきました。
 そして横山が、村民の生活を真に豊かにするために、最大の熱意を持って取り組もうとしたのが、「穂別TVA計画」と名づけられた、ダム建設と電力開発を中心とした一大プロジェクトでした。

 ‘TVA’とは、1930年代アメリカのニューディール政策の一環として大規模な水利開発事業を遂行した、独立行政機構‘Tennessee Valley Authority’(テネシー川流域開発公社)のことですが、その内容は、電力供給、治水、灌漑、交通、雇用創出などの産業振興を行うとともに、自然環境を生かしつつ、ハイキング、釣り、キャンプなど、住民のレクリエーションのための施設をも建設・運営するという、多角的なプロジェクトでした。行政による事業であるにもかかわらず、これらは税金を使わずに、事業収入によって運営されていたところも、大きな特徴として挙げられます。
 横山は、1948年にD.E.リリエンソール著の『TVA―民主主義は進展する―』という本を読んで感銘を受け、これこそが穂別を発展させるための方法だと考えました。ダムの建設によって鵡川の水害をくいとめ、電力を利用して上流の石炭や石灰岩、クローム、チタン鉄鉱などを開発するとともに、村民全体の生活と文化を向上させることができると、彼は信じました。
 横山は同年のうちに穂別村電気利用農業協同組合を設立して準備を開始し、ついに1952年には村立発電所の建設が決議され、計画が動き始めました。

 しかし、年間予算が当時6800万円という村で、総工費2億3000万円の事業を行おうとするわけですから、当然その見通しを危ぶむ意見も多くありました。村有林を担保にどんどん借金をしてまわる横山のやり方に、批判も出てきました。また、以前からの反横山派はここぞとばかりに村長個人への中傷を強め、村の納税成績が低下してくるという事態にもなりました。
 そこで横山は1953年6月、いったん自ら村長を辞職して、改めて村長選に出馬して信を問うという、最近の自治体首長も時に住民投票的な意図で用いる策に打って出ました。
 これによって7月にまた村長に選ばれた横山は、勢いを得て9月から、発電所建設を開始します。

2.賢治観音の発願

 一方で横山は、ほんとうに村を発展させるためには、このような土木事業を進めるだけではなく、何か村人にとっての精神的なよりどころがなければならないと感じていました。かねてから横山は、宮澤賢治の思想や行動について詩人浅野晃から詳しく聞いて傾倒していましたから、この賢治の精神を、穂別の地にも生かしたいと考えるようになりました。
 そして、その賢治の精神を象徴する存在として、村に「賢治観音」なる仏像を造ろうと思い立つのです。

 横山は、浅野あての書簡に、次のように書いています。
 「…わたくしは、上京の度に仙寿院に久保田正文先生を訪ね、また、身延山に登り、日蓮上人の生活を思い、また宮沢賢治先生の言葉をさぐっている中に、真当の村づくりを進めるためには、『賢治観音』を造り観音堂を建立する決意となりました。…」
 「…『賢治観音』を造る決心をしたことには、もう一つの理由があります。…真当の村づくりには、賢治先生のような真当の教育者、宗教家が穂別に生まれ、穂別の無心な人々の心の中に正しく生きる喜びを呼び続ける事がどうしても必要な事を私は先生(註:浅野晃のこと)とお話をしているうちに痛切に思われてまいりました。
 そのためにも『賢治観音』を造らなければの思いがますます深くなってまいりました。…」

 1952年、「賢治観音」建立の相談をするために、横山は浅野を通じて、東京在住の賢治研究家佐藤寛を紹介してもらいました。佐藤は、もともと賢治が神格化・偶像化されることには反対で、「賢治観音」などと祀り上げて礼拝するなどもってのほかという考えでしたが、横山と話すうちにその壮大な構想に動かされ、助力を約束しました。
 佐藤は、横山と会って穂別から東京へ帰る途中、花巻に寄って宮澤家を訪ね、「賢治観音」の構想について説明して了承を請いました。「当初、宮澤家として、賢治を以て菩薩とすることを容認しない謙虚さがあったが、あくまで賢治の精神を象徴する菩薩像としての『賢治観音』であることを申し上げ了承を得た」と、佐藤は書き残しています。

 その後佐藤寛は、この年の7月に東京で開かれた「宮沢賢治遺墨展」の会場で、花巻在住の彫刻家佐藤瑞圭に出会い、横山から依頼された「賢治観音」の話を持ちかけます。
 佐藤瑞圭は、高村光雲一門で仏像彫刻をよくしていましたが、佐藤寛からの話があった時、一瞬啓示が走るのを覚えたといいます。
 まぶたの裏には、自分が小学校3~4年生の頃、花巻農学校教諭をしていた賢治が、通勤の途中にしばしば家の前を通り、庭で花木の手入れをしていた父と、親しく話をかわしていた情景が浮かびました。優しい笑顔で、時には自ら手をとるように、賢治は庭木の手入れについて助言をしてくれたのです。

 宿縁のようなものを感じた佐藤瑞圭は、1953年8月、佐藤寛とともに穂別町を訪れ、横山村長から正式に賢治観音彫像の依頼を受け、承諾しました。
 横山に案内されて訪れた観音堂建設の予定地は、発電所工事現場からさらに何kmも登った山奥で、人々がお参りをするにはいかにも不便に思われて、奇異な感じがしたといいます。しかし横山によれば、発電所が完成したあかつきには、ここまで舗装した道路が整備され、観音堂のまわりには桜並木や花畑を造り、春と秋にはお祭りをして、ここを村の老若男女が集う行楽地にするのだというのです。横山の考えは、目先のことにとらわれず遠い将来を見据えたものでした。

 花巻に戻った瑞圭は、自らのまぶたに残る賢治の面影を生かしつつ構想を練り、1954年3月までかけて観音像の原図を書きました。そして一木の檜に彫刻刀を入れ、それから7ヵ月間の一刀三昧の後、ついに同年10月、一体の観世音菩薩立像を彫り上げました。
 完成した賢治観音は、当時の「岩手日報」にも報じられ、花巻の人々はこれが北海道に送られてしまうことを惜しんだということです。

 1954年11月、賢治観音は穂別に到着し、村人は歓呼をもって迎えました。これ以後しばらくの期間にわたり、観音像は村長公宅をはじめ村の各地の家を巡回し、そこに近所の人が集まって、「観音講」が開かれました。そしていつもその席で横山村長は、観音の由来、宮澤賢治の精神を話し、賢治の弟清六氏から贈られた「雨ニモマケズ」の色紙を朗誦したということです。
 ひととおり村中をまわった賢治観音は、1955年10月、発電所の工事現場近くに建てられた御堂に安置されました。

3.TVA計画の挫折と病魔

 1953年に発電所建設は着工されましたが、実際の工事に入ってみると、さまざまな難題が発生してきました。
 ダム建設地内には鉱脈があり、用地買収に予定以上の費用がかかることになり、また硬い蛇紋岩の地層が多く、掘削が非常に困難でした。トンネルを掘っても、水分で膨張した岩盤によって押し潰されることが続きました。さらに、電力の需要が当初の見積もりより増加したため、発電所の規模は、計画の500kWから1600kWへと大幅に拡大されることになりました。
 建設費用はどんどん膨らみ、工事のための借入金は、4億円を越えました。横山は、工事続行のために自らの私財もつぎ込んでいきます。
 しかし、これと平行して村そのものの財政も逼迫し、炭鉱の不振、村税の滞納も重なって、村の累積赤字は1952年には1700万円、1955年には4000万円と膨張し、年間の村税収入の2倍にも達します。しだいに職員の給料や債務の支払いもままならなくなり、村の財政は、完全に破綻したと言わざるをえない事態になりました。
 ここに至って、反横山派の村長批判は再び激しさを増します。そもそも穂別TVAなどという計画自体が無謀だったのだとして、横山の責任を追及する声は、村全体にも広がってきました。

 これに加えて、横山はもう一つ大きな敵を抱えてしまいました。これまで過労を重ねてきた彼の身体を、結核がむしばんでいたのです。少し前から徐々に症状は現れてきていましたが、それでも休むことなく無理を重ねた結果、この頃の横山は喀血を繰り返し、しばしば高熱も出すようになっていたのです。

 ついに1956年7月、病気を理由に横山は自ら村長を辞職しました。それと同時に、彼は兼任していた穂別村電気利用農業協同組合の組合長の辞表も提出しましたが、無情にもこちらの辞表は受理されませんでした。すでに村のお荷物となってきていた発電所建設を、横山の跡を継いで引き受けようとする人は誰も現れなかったのです。
 やむをえず横山は、病をおして発電所建設の指揮を続けなければなりませんでした。結局彼は、自分の計画の責任を最後まで引き受けることになったのです。

 1957年7月、夢にまで見た発電所がやっとのことで完成した時には、横山は泣けて泣けて仕方なかったといいます。当初の計画よりも、2年の遅れでした。全村1200戸に送電が開始され、家々も喜びにわきました。
 横山は、これを機に再度、電気利用農業協同組合の組合長辞任を申し出ましたが、やはり役員会で承認されませんでした。彼はさらに病身に鞭打って、発電所の責任者としての立場を続けることになります。

 さて、発電所はかろうじてできたものの、その運転にも困難が続きました。特に冬場は、アイスクリーム状になった氷が、発電機のモーターをしばしば止めてしまうのです。発電機の状態を監視しつづける必要があり、事故はたいてい夜に起こるため、その夜勤はたいへんな仕事でした。しかし他にやる職員がいないので、横山は病気をおして実に10日のうち6日は夜勤に入るという、無茶な勤務を続けることになりました。
 横山は、浅野晃あての書簡に書いています。
 「…あの発電所は全く困難でした。病気の為、村長を退任しましたが、電気組合長のみ止めさせて下さいませんでした。出来ては見ても、故障の時の為に、私は正月2回、発電所で過ごしました。仕上げてしまわなければ、死にも出来ないはめに陥り、雪の中、皆は、疲れて来ると、仕事を捨ててしまいますので、皆に悪いと考え乍らも、私も吹雪の中に立ち続けているので、夜の十時になっても、皆は、仕事を続けてくれた事もあったりして、其の夜は、冷えきって寝られません。例の通り喀血が始まります。
 小さい喀血を加へると、昨年迄に21回ありました。私も喀血に対して上手になり、冬の夜はストーブの音を静かに聞きつつ、夏は白い雲を見ながら、少しでも早く心の動揺を忘れて、出て来る血を静かに送り出します。そして「私は日蓮様を信じます。私は私の運命をあまんじて受けます」と心で祈り続けました。…」
 これはまさに、「眼にて云ふ」の世界です。

 1959年8月、心身ともにぼろぼろになった横山はついに入院を余儀なくされ、9月末をもって、やっと電気利用農業協同組合の組合長退任が承認されました。

4.晩年と忘却

 公務から身を引いてからも、「倒れた者に石を乗せる」ような反横山派の動きが続きました。横山が、組合長時代に経理の不正をして着服したという宣伝がされ、2回も監査を受けました。
 実際には、発電所建設の予算が足りない分を、自分の財産をつぎこんで埋め合わせていたため、退職するとすぐに生活は苦しくなりました。やむをえず、リウマチの持病のある妻が、魚の小売りを始めました。これに対しては、隣の鵡川の町会議員からも、「穂別のためにも横山に魚屋させるな、隣村でも見るに忍びぬ」と言われたりしましたが、結局妻のリウマチが悪化したため、魚屋は続けられなくなりました。
 薬代にも事欠き、妻は浴衣も買えないという生活でしたが、心ある人たちが米や味噌を届けてくれました。なんとか生きられたのは、「妻の看護と宮澤賢治のおかげ」と、横山は言っています。

 このような生活を続けながらも横山は、夜汽車に乗って何度も上京するということを繰り返します。師と仰ぐ浅野晃に会って話をしたり、自分の再起を期するつもりで、東京の知人を訪ねたりしました。
 その都度、息も絶え絶えになって上野駅に着き、駅前の定宿フジヤ旅館にころがりこむと、床に臥せってしまいます。浅野が医者に往診を頼むと、そのたびに医師はあきれたように、「横山さん、全く無茶だ、こんな身体でまた出てきたの、無理をしては駄目じゃないか、生きていることが不思議なくらいだ…」と諭したということです。
 こういったところも、不思議に賢治の上京の様子を連想させます。

 1965年3月、リウマチの悪化に過労が重なり、妻のハルが亡くなりました。その直前に、札幌の病院に妻を見舞おうとした横山は、病院の前まで車で着いたものの、妻のいる2階の病室まで階段を昇る体力はなく、妻も階下に降りることはできません。かろうじて看護婦に抱えられて窓際に出た妻の姿を下から見上げたのが、最後の別れになったということです。
 妻のあとを追うように、同年4月には横山も入院し、1年半の闘病生活の後、1966年10月に亡くなりました。享年58歳でした。

 さて、生みの親がいなくなった発電所は、借金とともに村のお荷物になっていましたが、小さな自治体の運営ではなかなか採算がとれません。とうとう1972年に、村立の発電所は北海道電力に売却されました。
 そして北海道電力も、その後この発電所の操業をあきらめ、ついに取り壊されることになりました。
 「穂別TVA計画」という横山の夢は、文字どおり跡形もなくなったわけです。

 発願者亡きあとの「賢治観音」も、流転をたどります。発電所近くの御堂に安置されていた観音は、いつのまにか姿を消し、富内地区の高砂老人クラブの集会所に、ひっそりと置かれることになります。
 観音像は、左手小指が欠けたり肩がゆるんだり、損傷によって徐々に痛ましい姿になっていきますが、それでもありがたい観音様として、地元のお年寄りの尊崇を受けていました。
 しかしいつしか、この観音がかつて「賢治観音」と呼ばれていたことを知る人はいなくなり、誕生にまつわるエピソードも、人々からは忘れ去られていったのです。

5.再発見

 国鉄富内線は、穂別を経て鵡川町と日高町を結ぶ全長82.5kmの路線です。戦後まもない頃は石炭や材木の運び出しで活況を呈していましたが、その後の炭鉱の不振と赤字もあいまって、1986年をもって廃線になりました。
 その富内線の富内駅駅長をしていた谷口正は、退職後に地元の資料の調査をしているうちに、地区の老人センターにある美しい観音像に興味を引かれました。「左手小指は欠落し、薄暗い静寂のなかに悲しみの光背を負うてひっそりと佇む陰影の深さに、いいしれぬ想いがこみあげてくる…」と、後に谷口は書いています。
 なぜこのような場所に、傷みつつも見事な観音像が置かれているのか、周囲の人に尋ねてみましたが、誰もその由来を知る人はありません。
 かろうじて、「制作者は岩手の人らしい」ということを言う人があり、1987年3月に、谷口は岩手県に問い合わせをしてみました。

 5月になって、とつぜん花巻市の藤田市長から連絡がありました。観音像の制作者は、花巻在住の佐藤瑞圭であることが判明したのです。
 谷口の依頼によって、同年の9月に穂別を訪れた佐藤瑞圭は、彫像から実に23年ぶりに、観音像と再会します。そして、傷んでいた像の修復を行いました。
 修理を終えた佐藤が谷口に語ったのは、「賢治観音」として横山村長から彫像を依頼された当時のエピソードでした。

 老人センターに置かれていた仏像に、「賢治観音」などという名称があったとは谷口も思いもかけず、それにしても宮澤賢治と穂別にいかなる関わりがあったのか…、谷口の興味は深まり、その由来や横山村長の足跡を調査していきます。
 その成果は、『賢治観音縁起』という小冊子にまとめられ、さらに谷口の没後、その後も蒐集された資料が入った段ボール箱を長男が見つけて、『我はこれ塔建つるもの―賢治観音縁起・補遺』として刊行しました。

 1988年には、地元の募金によって新たな観音堂が富内地区に建設され、転々とした「賢治観音」は、やっと落ち着き先が定まりました。
 また、「賢治観音」の由来が明らかになったことをきっかけに、ふたたび宮澤賢治の精神を町づくりに生かそうという声が上がります。「穂別イーハトーブ」という構想が掲げられ、これによって現在見られるようなさまざまな企画が行われるようになったわけです。

 観音像も、今は「穂別町指定文化財」となって、下写真の観音堂に祀られています。
 像の傍らには、賢治の戒名とともに、横山正明・ハル夫妻の戒名を記した卒塔婆が、並べて3本立てられていました。

(文中敬称略)

[参考文献]
谷口 正:「我はこれ塔建つるもの―賢治観音縁起・補遺」, 2001
斎藤 征義:「ほべつ銀河鉄道―生誕百年・宮沢賢治のまちづくり<1>~<5>」(苫小牧民報連載記事, 1996)


賢治観音が安置されている観音堂