「丘」詩碑
1.テキスト
【主碑】
文語詩 「丘」 より
宮澤賢治
野をはるに北をのぞめば
紫波の城の二本の杉
かゞやきて黄ばめるものは
そが上に麦熟すらし
うちどよみまた鳥啼けば
いよいよに君ぞ恋しき
野はさらに雲の影して
松の風日に鳴るものを
宮澤星河書
【副碑】
丘
森の上のこの神楽殿
いそがしくのぼりて立てば
かくこうはめぐりてどよみ
松の風頬を吹くなり
野をはるに北をのぞめば
紫波の城の二本の杉
かゞやきて黄ばめるものは
そが上に麦熟すらし
さらにまた夏雲の下、
青々と山なみははせ、
従ひて野は澱めども
かのまちはつひに見えざり
うらゝかに野を過ぎり行く
かの雲の影ともなりて
きみがべにありなんものを
さもわれののがれてあれば
うすくらき古着の店に
ひとり居て祖父や怒らん
いざ走せてこととふべきに
うちどよみまた鳥啼けば
いよいよに君ぞ恋しき
野はさらに雲の影して
松の風日に鳴るものを
2.出典
「丘(下書稿手入れ)」(文語詩未定稿)
3.建立/除幕日
2013年(平成25年)4月27日 建立/除幕
4.所在地
岩手県紫波郡紫波町二日町字古舘 城山公園 二の丸広場
5.碑について
賢治の「丘」という文語詩を刻んだこの詩碑は、作品中に登場する「紫波の城」という言葉にちなみ、賢治没後80周年を記念して岩手県紫波町にある城山公園に建てられました。
詩碑の全体像は下の写真のようになっていて、作品の抜粋を刻んだ「主碑」と、作品全文を刻んだ「副碑」が並んでいる様子は、羅須地人協会跡にある「雨ニモマケズ」詩碑の最近の様子と、言わば相似形になっています。
紫波町の「丘」詩碑
左右は逆ですが、主碑は垂直に立ち、副碑はやや小ぶりで水平やや斜めという形も、よく似ています。
花巻の「雨ニモマケズ」詩碑
さて、もともとこの「丘」という文語詩は、1914年(大正3年)6月に詠まれたと推測されるいくつかの短歌に由来しています。
山上の木にかこまれし神楽殿 179
鳥どよみなけば
われかなしむも。
志和の城の麦熟すらし 179a180
その黄いろ
〔きみ居るそらの〕
こなたに明し
神楽殿 179b180
のぼれば鳥のなきどよみ
いよよに君を 恋ひわたるかも
言うまでもなくこれらの短歌は、賢治が同年4月の岩手病院入院の際に恋した看護婦のことを思って、詠んだものです。
賢治が立っているのは胡四王山(183m)、そこからおよそ20km北にある紫波町の城山(181m)を遠望することは可能なようですが、そこにある「二本の杉」や、麦が黄色に熟しているところまで見えたというのは、ちょっと驚きです。
この問題について小川達雄氏は、『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』(河出書房新社)において、次のように記しておられます。
賢治は並はずれた視力を持っていたのかもしれないが、しかし、城跡という遠い緑の丘を眺めて、そこに麦の色の気配を察知し、二本杉の所在を認めることができたのかどうなのか。思うにこれは、賢治がそれまでに何度か志和の城にやって来ていて、それで麦畑や二本杉を知っていた、ということではあるまいか。その記憶があったために、遠いかすかな緑の突起を二本杉と見、城跡の上のかすかな明るさは麦の色、と見ることが出来たのではないかと思う。
そのようなことだったのかなあと、私も思います。
ちなみに、城山に実際にあった「二本杉」の大正時代の写真が、上掲書に載せられています。
小川達雄著『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』より
また、賢治が短歌に「志和の城の麦熟すらし」と描いたような場所がこの城山にあったのかどうかということに関しては、やはり小川達雄氏が、志波城で「若殿御殿跡」と呼ばれた広場が、大正時代には広い麦畑になっていたという話を紹介しておられます。
そしてこの「若殿御殿跡」の場所が、現在はこの詩碑が建てられている「二の丸広場」になっているという事実が、この碑の存在感さらに高めてくれています。
この「丘」という作品は、賢治自身が立つ胡四王山の鳥や松風の描写から始まり、途中のこの「紫波の城」を経て、さらに遠くて見えない「かのまち」と「きみ」に思いを馳せつつ心を痛め、最後にまた胡四王山の鳥や風に戻るという構成になっています。
大正3年に賢治が思いを寄せていた相手は、盛岡の岩手病院入院中に見そめた看護婦さんであったことから、紫波の城の彼方にある「かのまち」とは、盛岡であることがわかります。
それでは、この詩に「紫波の城」が登場する理由は何だったのでしょうか。作品を読むかぎりでは、愛しい人のいる盛岡の街を見ようとして、その方向で視界の及ぶぎりぎりのあたりで偶々目に入ったのが、この城山だったということになるでしょう。 しかし、紫波町の「城山に宮澤賢治文学碑を建てる会」が、この立派な詩碑を建立された目的は、ここに偶然ではない「特別な意味」を想定しておられるからで、それはこの城山の麓にある日詰町が、賢治の初恋の相手だったかもしれない看護婦、高橋ミネさんの出身地だからです。
この作品を見るかぎりでは、紫波(志和)や日詰に対して賢治が特別な思い入れをしていたという証拠は何もありません。
しかし日詰駅に歌碑が建つ、「さくらばな/日詰の驛のさくらばな/かぜに高鳴り/こゝろみだれぬ」という大正6年の短歌や、やはり日詰の五郎沼を舞台とした「水部の線」という文語詩などの存在を合わせて考えると、やはり賢治はこのあたりの地域に対して何かの思いを抱いていたという可能性も、あながち否定はできないことでしょう。
作品とは逆に、かつて黄色に麦が実っていたというこの二の丸公園から、胡四王山のある南の方角を眺めてみましたが、残念ながら霞の向こうに胡四王山を見ることはできませんでした。