「林と思想」詩碑

1.テキスト

  林と思想

そら ね ごらん
むかふに霧にぬれてゐる
蕈のかたちのちいさな林があるだらう
あすこのとこへ
わたしのかんがへが
ずゐぶんはやく流れて行つて
みんな
溶け込んでゐるのだよ
 こゝいらはふきの花でいつぱいだ
              賢治

2.出典

林と思想」/『春と修羅』

3.建立/除幕日

1998年(平成10年)6月18日 建立/除幕

4.所在地

岩手県岩手郡滝沢村鵜飼 春子谷地湿原隣接地

5.碑について

 ふつうの文学的分類に従えば「口語詩」とされるであろう自らの作品ジャンルを、宮澤賢治は特に「心象スケッチ」と名づけて、世の一般に見られる「詩」とは区別しようとしていました。
 たとえば、1925年の岩波茂雄あて書簡に、彼は次のように書いています。

「…わたくしは岩手県の農学校の教師をして居りますが六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。わたくしはさう云ふ方の勉強もせずまた風だの稲だのにとかくまぎれ勝ちでしたから、わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました。その一部分をわたくしは柄にもなく昨年の春本にしたのです。心象スケッチ春と修羅とか何とか題して関根といふ店から自費で出しました。友人の先生尾山といふ人が詩集と銘をうちました。詩といふことはわたくしも知らないわけではありませんでしたが厳密に事実のとほりに記録したものを何だかいままでのつぎはぎしたものと混ぜられたのは不満でした。…」(書簡214a)

 つまり賢治は、世間にある「いままで」の「詩」は、作者が「つぎはぎした」恣意的な創作物であるのに対して、自分の「心象スケッチ」は、「科学的に記載し」「厳密に事実のとほりに記録したもの」であることを、ことさら重要視し、自らの矜持ともしていたのです。

 しかし、実際に彼の作品を見てみると、いったいこれのどこが「科学的」で、どこが「事実のとほり」なんだと、文句を言いたくなる人も多いでしょう。それは、どんなに控えめに言っても「幻想的」で「超現実的」で、この世ならぬ不思議な世界を描いているようです。何のことを言っているのやらさっぱりわからないような作品もあります。
 このへんの事情を矛盾なく納得するためには、結局彼はさまざまな場面で自分の心の中に生起する主観的な「心象」をありのままに記録しようとしたのであって、物理的現象を客観的に記述しようとしたわけではないのだと、理解しておくしかないでしょう。
 それが、「心象スケッチ」という呼称に彼がこめた意味でしょうし、そうであれば、心理学も科学の一分野であるという意味において、彼の営みは「科学的」であったことになります。

 そこでそう思ってあらためて賢治の「心象スケッチ」を読むと、彼の心象は、そしてそれを形成する彼の知覚様式は、多くの人とは異なるさまざまな特性を帯びていたことがうかがわれます。あるいは正確には、一般人にも少しはあるだろう傾向が、極端に研ぎ澄まされ肥大していると言うべきかもしれません。
 そのような彼の知覚の特異性としては、感覚そのものの過敏さ、「共通感覚(sensus communis)」の優勢など、種々のものがこれまで指摘されていますが、私が強く感じる特徴の一つに、「内界と外界の境界の曖昧さ」ということがあります。個人の内的な精神活動(の知覚)と、外界に関する知覚とが、相互に浸透しあって、渾然一体となることが多いのです。
 その実例は枚挙にいとまがありませんが、たとえば「種山ヶ原(下書稿(一))」の、「雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに/風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され/じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で/それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ…」という一節などは、典型的です。

 彼の場合、外界と内界との相互浸透の様態は、二つに分けてみることができます。
 外界が内界へ「侵入」してくるという方向性をとる時、これは一種の幻覚として体験され、やはり彼の種々の作品に登場します。
 一方、逆に内界が外界へと「湧出」していく、という方向性をもった体験もあり、その好例が、この「林と思想」です。
 「わたしのかんがへ」という個人の内的な現象が、外界の物理現象である「林」へと、流れていって溶け込んでいるというのですから、ここでは通常の人が前提としている自他の境界線は、軽々と越えられてしまっています。同じような方向性の体験の例は、「雲とはんのき」の一節「北ぞらのちぢれ羊から/おれの崇敬は照り返され…」というところにも見られます。やはり、「崇敬」という心的現象が、雲まで達して反射してくるというのです。

 このような知覚の特性が、彼独特の自然との一体感を形づくり、その作品を強く特徴づけていると言ってよいでしょう。
 また宗教的な意味では、「内界と外界が一つである」ということは、仏教で言えば「唯識論」的な世界観ともつながります。これはたとえば、「銀河鉄道の夜(初期形)」の、「ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だってたゞさう感じてゐるのなんだから」という部分などに現われています。
 結局これらがあいまって、宮澤賢治という不可思議な、芸術的・宗教的人間を形成していたのだろうと思います。

 この小さな作品から連想したことを述べるのに、思わず長々と字句を費やしてしまいました。
 それにしてもこれは、小さいけれども賢治らしい、素朴だが独特な作品です。 生徒にでも語りかけているような口調が、優しく響きます。『春と修羅』のなかでは「グランド電柱」という章の最初に位置し、この後にもしばらくおだやかな自然や人間の風景を描いた作品が続きます。

 詩碑が立っているのは、岩手山と鞍掛山の南麓、「春子(はるこ)谷地(やち)」という名前の湿原の縁のあたりです。土神やきつねが歩いていそうな所でした。
 県道から小径を入っていくと、作りかけの公園の跡地のようなところがあって、下の写真で言えば石垣の向こう側のわかりにくいところに、ひっそりと詩碑は隠れていました。
 冒頭の写真でわかるように、テキスト内容と同様、蕗の葉がいっぱい詩碑のまわりを取り囲んでいました。