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「種山ヶ原」詩碑

1.テキスト

  種山ヶ原
          一九二五、七、一九、
          宮沢賢治
まっ青に朝日が融けて
この山上の野原には
濃艶な紫いろの
アイリスの花がいちめん
靴はもう露でぐしゃぐしゃ
図板のけいも青く流れる
ところがどうもわたくしは
みちをちがへてゐるらしい
ここには谷がある筈なのに
こんなうつくしい広っぱが
ぎらぎら光って出てきてゐる
山鳥のプロペラアが
三べんもつゞけて立った
さっきの霧のかかった尾根は
たしかに地図のこの尾根だ
溶け残ったパラフンの霧が
底によどんでゐた、谷は、
たしかに地図のこの谷なのに
こゝでは尾根が消えてゐる
どこからか葡萄のかほりがながれてくる
あゝ栗の花
向ふの青い草地のはてに
月光いろに盛りあがる
幾百本の年経た栗の梢から
風にとかされきれいなかげらうになって
いくすじもいくすじも
こゝらを東へ通ってゐるのだ

2.出典

三六八 種山ヶ原(下書稿(三)手入れ)」(『春と修羅 第二集』)

3.建立/除幕日

2001年(平成13年)12月4日 建立

4.所在地

岩手県気仙郡住田町世田米字子飼沢 「道の駅 種山ヶ原」

5.碑について

 賢治が初めて種山ヶ原へ行ったのは、盛岡高等農林学校3年の1917年秋のことでした。同級生とともに、徒歩で水沢方面から岩谷堂、原体、伊手を経てこの高原まで登り、地質調査を行いました。この旅で出会った種山ヶ原の自然は賢治を魅了し、これ以降彼は、何度となくこの地を訪れます。そして、短歌、詩、童話、劇、歌曲など、彼のその後の創作の重要な舞台となりました。

 いま私たちが種山ヶ原を訪ねる場合にも、当時の賢治とほぼ同じ道筋をたどるのが一般的です。このルートは現在は国道397号線となっていますが、やはり水沢から東へ山道を登り、銚子山や伊手を過ぎて、江刺市と住田町の境にある姥石峠のトンネルを抜けると、「道の駅 種山ヶ原」というサービスエリアがあります。
 このあたり一帯がいわゆる種山ヶ原で、ここから北へ山道を入っていくと、種山(物見山)の頂上や、「星座の森」キャンプ場もあります。

 「道の駅 種山ヶ原」の一角に賢治の詩碑が建てられたのは、2001年12月のことでした。
 サービスエリアの南西の隅に、鯨の体躯のように横たわる青く巨きな岩は、当時の新聞記事によれば「全国最大の賢治詩碑」だということです。住田町内に露出しているところを掘り出されたという石英斑岩は、その幅5mもあります。

 さて、碑面に刻まれているのは、『春と修羅 第二集』より「種山ヶ原」です。
 その最終形態は、<テキスト>に掲げたような本文27行の小品なのですが、実はこの作品の下書稿(一)第一形態は、「パート一」から「パート四」までの各部で構成された、総計164行の長大なテキストでした。
 「種山ヶ原詩群」の項で触れたように、賢治は1925年7月19日の夜明けから夕暮れまで、種山ヶ原を歩きとおしたと推測されます。それはおそらくあの「小岩井農場」の散策にも匹敵する詩的歩行だったでしょう。賢治はこの時、四つのパートにわたる厖大なスケッチを書きとめました。
 そこには、美しいかきつばたの花を心ゆくままに手折り集めながら、全自然の祝福を貪欲なまでに受けとり、ほとんど自然そのものに溶解してしまいそうな賢治がいます。ちょうど種山の頂上で全体のクライマックスとなるその「パート三」には、「雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに/風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され/じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で/それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ…」という有名な一節も出てきます。

 この段階のテキストは、それはとても素晴らしい作品だったと私は思うのですが、なぜか作者は後にこれをパートごとにばらばらに分解してしまいます。そしてその各々は、作品番号や日付も失いながら、何度も何度も推敲・改稿を受けていくことになるのです。
 これまで明らかにされている賢治の種々の推敲例の中でも、ここで「種山ヶ原」テキストがたどる錯綜した経過は、その最も複雑なものの一つと言えるのではないでしょうか。そのおおまかな様子については、「『春と修羅 第二集』関連草稿一覧」の該当箇所をご参照ください。

 結局このような過程を経た後に、かろうじて作品番号と日付を保持して残ったのが、ここで詩碑にもなっている最終形態です。
 これはこれで魅力的な作品なのですが、初期形態からずっと追跡してここに到達してみると、何か少しもったいないような気持ちを覚えなくもありません。官能的なまでに豊穣だった果肉はどんどん削り取られてゆき、一つの「種」が残っています。

 私はここで、種山ヶ原自身もその一例であるところの、「残丘(モナドノック)」という地学現象を連想せざるをえません。
 太古にはもっと高い山脈だった北上山地が、長い年月のうちに侵食されて現在のような「準平原」になっていく過程で、蛇紋岩のように硬い岩は、他の地質と比べて相対的に侵食を受けないために、周囲の土壌とともに取り残されました。その結果、まわりから少し盛り上がったなだらかな丘の中央に大きな岩があるという、このあたり独特の地形ができていったのです。
 初期形「パート三」の冒頭に、「この高原の残丘(モナドノック)/こここそその種山の尖端だ」とあるように、種山の頂上にあるごつごつした岩は、典型的な残丘の構造を見せてくれます。

 ここに私は、当初の長大な心象スケッチが長年の推敲によって削られていったことと相似の運命を感じてしまいます。
 そして、地質学的空想にふけりながら種山ヶ原を散策すれば、そのなだらかな起伏から昔の急峻な山々を偲ぶことができるように、小さな「種山ヶ原」最終形からも、失われたものだけではない静かな時間の堆積が感じられるようにも思うのです。


「道の駅 種山ヶ原」