果てしない旅人

 盛岡高等農林学校3年の1917年7月1日、賢治は学友とともに同人誌『アザリア』を創刊しました。その第一号に賢治が寄稿した短篇「「旅人のはなし」から」は、彼が生涯で初めて発表した散文作品です。
 この作品は、語り手「私」が過去に読んだ「ある旅人の話」の内容を、思い出すままに綴ったという形式で書かれていて、旅人が経験したという様々な出来事が、走馬灯のように流れていきます。途中で旅人は、子供の身代わりになって死んだり、男や女や木に恋をしたりもします。
 なかでも、この旅人が経験する出会いと別れには、深い孤独感が漂っています。

 旅人は行く先々で友達を得ました。又それに、はなれました。それはそれは随分遠くへ離れてしまった人もありました。旅人は旅の忙しさに大抵は忘れてしまひましたが時々は朝の顔を洗ふときや、ぬかるみから足を引き上げる時などに、この人たちを思ひ出して泪ぐみました。
 どうしたとてその友だちの居る所へ二度と行かれませうか、二つの抛物線とか云ふ様なものでせう。

(「「旅人のはなし」から」)


 お正月の休みに、藤村安芸子著『宮沢賢治 人と思想』という本を読みました。下のような赤い表紙でおなじみの、清水書院「人と思想」シリーズの一冊で、内外の偉人を取り上げたどの巻もコンパクトかつ適確にまとまっていて重宝なのですが、この「宮沢賢治」の巻は、おもに童話に表現された賢治の思想を、仏教的な観点から分析したもので、とても奧深く刺激的な内容でした。

宮沢賢治 人と思想 宮沢賢治 人と思想
藤村安芸子 (著)
清水書院 (2024/10/21)
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 あけましておめでとうございます。本年もどうかよろしくお願い申し上げます。

 ところで、今日からちょうど百年前の1925年1月5日の夜、賢治は花巻から三陸地方へ向けて旅立ちました。この旅行中には、出発時の「異途への出発」をはじめ、多くの詩が書かれましたが、翌1月6日明け方の北三陸の海岸を「暁穹への嫉妬」に、1月7日に発動機船に乗って宮古まで航行する間の情景を「発動機船 一」「発動機船 第二」「発動機船 三」の連作として残しています。「暁穹への嫉妬」は、後に文語詩に改作されて「敗れし少年の歌へる」となりました。

 その後2004年10月、賢治が発動機船に乗った場所の推定地の一つである普代村堀内に、「敗れし少年の歌へる」詩碑が建立され、私は賢治の旅から80周年となる2005年1月にこの地を訪れたのですが、図らずもその際に地元の合唱団の方から依頼を受けて、この詩に曲を付けた合唱曲「敗れし少年の歌へる」を作らせていただきました。

 続いて、賢治の旅から90周年になる2015年には、普代村黒崎に「発動機船 一」詩碑が建立されました。私はお誘いを受けて、普代村やお隣の田野畑村の村長さんも出席されたこの詩碑の除幕式に、参加させていただきました。
 相次ぐ詩碑の建立は、賢治と三陸地方の縁を大切にしようという、地元の方々の強い思いの表れかと思います。

 そして、昨年10月のある日、また地元の合唱団の方から私に電話があって、詩碑となっている「発動機船 一」を合唱曲にしてくれないかと、依頼を受けたのです……。


 2024年も残り少なくなってきましたが、今年は宮沢賢治が生涯で唯一出版した詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』の刊行100周年にあたるということで、各所で記念のイベントが行われました。
 花巻市の宮沢賢治記念館で8月10日から来年2月9日まで開催されている特別展「刊行100周年 二冊の初版本」もそうですし、盛岡市のもりおか啄木・賢治青春館で12月1日から7日まで行われた「注文の多い料理店」出版100周年ウィークの連続企画もそうでした。
 一方、胡四王山の麓に抱かれた宮沢賢治イーハトーブ館では、7月13日から来年1月30日まで、企画展「1924年の春─『春と修羅』『注文の多い料理店』刊行 100 年─」が開催中ですが、このたびその展示内容を収録した「図録」が発売されました。下の画像は、その表紙と裏表紙です。

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8 γ e 6 α

 前回の記事では、「小岩井農場」の終わり近くの箇所で詩集印刷用原稿では「至上福祉」となっているところが、初版本では「至上福し」という表記に変えられている理由について、印刷所にある「祉」の活字に何らかの問題があったからではないかなどということを想像してみましたが、ほかにも『春と修羅』においては、印刷の段階で、何故か理由のわからない表記の変更が行われている箇所が、いくつかあります。
 その一つは、「蠕虫舞手アンネリダタンツエーリン」の「8エイト  γガムマア  eイー  6スイツクス  αアルフア」という、あの優雅な「アラベスクの飾り文字」です。

 作者賢治が見守る水盤の中のイトミミズは、小さな体で一心に踊っているのですが、その線形の身体が刻々と描く曲線を、「8 γ e 6 α」という文字によって象っているわけで、当時の日本の文学史上でも、これは画期的な表現だったのではないでしょうか。

 このイトミミズの姿態の表現は、作品中では全部で6回登場するのですが、詩集印刷用原稿では、すべて「8エイト  γガムマア  eイー  6スイツクス  αアルフア」と表記されていたのに対し、初版本ではこれらのうち3回は、「エイト ガムマア イー スイツクス アルフア」という形で、「読み仮名だけ」の表記になっているのです。
 この表記では、イトミミズの姿形を文字で写しとった作者のせっかくの工夫が、生かされなくなってしまいますので、原稿の表記の一部を印刷時に読み仮名だけに変えてしまった理由が、私としてはどうしてもよくわからないのです。
 


 『春と修羅』所収「小岩井農場」の終わり近くに現れる次の箇所は、賢治がトシの死や同僚堀籠文之進との葛藤を乗り越えようとする中で、深い人間関係のあり方の三種類(ある宗教情操/恋愛/性慾)を、独特の観点で論じたものです。下記は、初版本における形態です。

  ちいさな自分を劃ることのできない
 この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしよに
至上福しにいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得やうとする
この傾向を性慾といふ


岡村民夫著『温泉文学史序説』

 岡村民夫さんの新著『温泉文学史序説』(水声社)を読みました。

温泉文学史序説 温泉文学史序説
岡村民夫 (著)
水声社 (2024/11/7)
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 岡村さんは、2008年にも賢治と温泉の関わりに鋭く切り込んだ『イーハトーブ温泉学』を上梓され、また2020年に刊行して宮沢賢治賞を受賞した『宮沢賢治論 心象の大地へ』でも、「大地の設計者 宮沢賢治 温泉を中心に」その他の章で、「装景」等の視点から「賢治と温泉」を追究しておられましたが、今度はこれらをさらに普遍化して、日本における「温泉文学史」の誕生を、高らかに宣言する書となっています。


唯心論と諸法実相

 先日の小倉豊文氏に関する記事に書いたように、小倉氏は若い頃に聖徳太子の「世間虚仮 唯仏是真(世間は虚仮にして、ただ仏のみこれ真なり)」という言葉に出会ったことがきっかけで、聖徳太子研究をライフワークにしたということです。
 賢治が21歳の時に親友保阪嘉内にあてた書簡には、おそらくこの太子の言葉に由来すると考えられる一節が、引用されています。

退学も戦死もなんだ みんな自分の中の現象ではないか 保阪嘉内もシベリヤもみんな自分ではないか あゝ至心に帰命し奉る妙法蓮華経。
世間皆是虚仮仏只真。

(1918年〔3月14日前後〕保阪嘉内あて 書簡49より)

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書簡49最終葉(山梨県立文学館『宮沢賢治 若き日の手紙』より)


 先週、小倉豊文氏の生涯について記事を書かせていただいたご縁もあり、昨日はお天気も良かったので、千葉県東金市にある小倉氏のお墓参りに行ってきました。

 京都駅から8時前の新幹線に乗り、品川で千葉行きの普通電車に乗り換え、千葉からは外房線・東金線経由の普通に乗って、11時半に東金駅に着きました。
 駅前の花屋さんで花を買って、ここからは路線バスもあるのですが、往路は時間の関係でタクシーに乗りました。目的地は、下の地図の赤いマーカーを立ててあるあたりです。