『注文の多い料理店』原稿置き引き事件

 「光原社」というと、賢治が生前刊行した童話集『注文の多い料理店』の出版元で、現在も盛岡市材木町において、民芸品店・カフェとして営業している素敵なお店です。
 この光原社の創業者及川四郎の孫で、同社の現代表である川島富三雄氏が、『注文の多い料理店』の原稿に関し、これまでは知られていなかった「秘話」を、最近になって明かしておられます。

 まず、昨年12月21日付け朝日新聞岩手版に掲載された記事で、川島氏は次のように述べておられます。

 私は材木町の家で祖父と暮らしましたが、小学校の授業で「よだかの星」を読んだので、祖父に「賢治さんがどういう字を書く人なのか知りたいので、原稿を見せてほしい」と頼んだことがありました。
 すると祖父は「実は原稿を活字にして東京で印刷した後、直筆原稿を盛岡に持ち帰る際、上野駅で置き引きに遭ってしまい、今は残っていないのだ」と打ち明けました。
 これは、我が一族が他人にはほとんど語ったことのない、「注文の多い料理店」の原稿に関する「秘話」です。

 また、本年2月6日にテレビ岩手で放送された川島氏のインタビューは、今のところ下記のページで視聴することができます。

 このインタビューの、「置き引き事件」に関する部分を書き起こすと、以下のとおりです。

それで、私があの小学校4、5年生の時ですけども、教科書にあの、「よだかの星」っていう……、あれが出てきたんですね。それで学校で、みんなで朗読したり、いろいろして、それで、帰って、賢治ってどんな字を書くんだろうって、祖父に聞いたら、それで、残ってたら見たいなあ、とかって言ったのかなあ、そしたら、実はそれはねえ、これを印刷は東京でやって、それで、その、全部終わって、帰りに持って帰る途中に、上野で置き引きされたと、本当にそれが残念でしょうがないっていう話をね、でも、内緒だよ、っていう風に口止めされました(笑)。はい。

 『注文の多い料理店』と同じ1924年に出版された『春と修羅』の方は、出版社に持ち込んだ賢治自筆原稿の大半が、ずっと宮澤家の土蔵の中に保管されていて、最終原稿の上でも賢治が執拗に行った推敲の跡を見ることができますし、また用紙に記された複雑なノンブル記号の意味を、後に入沢康夫さんが鮮やかに解読されたことによって、この『春と修羅』という詩集がどういう順序で編集されていったかという詳細な経過が、明らかにされました。
 これに対して、なぜか『注文の多い料理店』の印刷用原稿は現存しておらず、それがどうなってしまったかというのは長年の謎だったのですが、これでちょうど100年ぶりに、その真相が明らかにされたわけです。
 もしもこの『注文の多い料理店』印刷用原稿が残されていたら、この童話集の編集経過についても様々なことが解明されたはずで、返す返すも置き引き犯のことが恨めしく感じます。
 (それにしてもこの犯人は、おもむろに盗品の中身を確認して、得体の知れない奇妙な原稿が出てきた時には、どんな顔をしたことでしょう。古本屋に売れるとも思えませんし、どうせ足がつかないようにすぐに捨ててしまったのかとも思いますが、東京の片隅で哀れな原稿用紙は、その後いったいどんな運命をたどったのだろうかと、想像してしまいます。)

 いずれにせよこの「原稿置き引き事件」は、「我が一族が他人にはほとんど語ったことのない」秘話だというのですから、これは賢治にも知らされていなかったことなのではないでしょうか。もしも賢治が知っていたら、弟の清六などにも言いそうなもので、そしたら後々に語り伝えられていたはずだと思いますので、これは本当に原稿の筆者も知らない「秘話」だったのではないかと思います。

 ところで、上野駅での置き引きというと、賢治と母イチが遭遇した事件のことも思い起こされます。下記は、森荘已池著『宮沢賢治の肖像』の、「賢治のお母さんから聞いたこと」という章の一節です。1918年末から賢治と母がトシの看病に上京し、年明けの1月半ばにトシの容態が少し落ち着いたので、母は先に花巻に帰ることになり、見送りの賢治とともに上野駅に来た場面です。イチが述懐するところでは……。

 トシさんも、だいぶよくなりましたし、旧正月がくると、忙がしいこともありますので花巻に帰ることになりました。賢さんは残って、トシさんといっしょに帰ることになり、わたしだけ先きに帰ることになったのです。
 上野駅に来ましたが、とても荒れて寒い日でしたので、ストーブのあるところに行き、荷物に後ろ向きになって、手をあぶっておりました。賢さんは、「お父さんに、おみやげに牛肉二斤買って来てけんじゃ」と、わたしが頼んだので、駅から出てゆきました。わたしが、ちょっと、後ろをむいて見たところ、もう荷物が無くなっていました。誰かに持ってゆかれてしまったのです。賢さんが帰って来ましたので、そういいましたら賢さんは、「ホウ」といいましたので、わたしが「そこらを見るッか」といいましたら、賢さんは「見ても出ないんだすじゃ」といいます。わたしは、くやしくてくやしくて、頭がぼおッとなるほどでした。そんなわたしの顔を見て、賢さんはひどく心配して、「花巻まで、いっしょに行くべか?」とききます。「トシさんのこともあるのだから、来なくてもいいんすじゃ」といいますと、「くやしいと思って、人の風呂敷包みなどジロジロ見だりしないんだあんすじゃ」と、いわれました。
「ああ、あきらめるべじゃ、仕方がないだも」と、わたしがいいますと、「おさん、ほんとうに、あきらめたッか、お、ほんとに、あきらめたッか?」と、しんけんになってききます。
「ほんとうに、あきらめだ」と、答えましたら、やっと賢さんは安心しました。
「トシ子のこつを持って帰ることまで考えて来たのだがら、ものぐらい盗まれだって、あぎらめられる」と、わたしはいいますと、「そだそだ」と賢さんはいいました。(森荘已池『宮沢賢治の肖像』pp.219-220)

 この母子の会話も、なかなか心に沁みるものがありますね。家族へのお土産を盗られて動揺する母を、冷静に気づかう賢治の言葉が印象的です。
 このような賢治の様子を見ると、もしも及川四郎が賢治に、『注文の多い料理店』の原稿を盗られたことを報告したとしても、「他の大事なものを盗られなぐて良かったなス」などと言って慰めてくれたのではないかと思いますし、そしたら及川も心が楽になり、その後ずっと重荷を抱えることもなかったでしょう。

 それにしても当時の上野駅というのは、東北から出てきて都会に慣れない田舎者がうろうろしているとでも思われたのか、置き引きが横行する場所だったのでしょうか。

 あと一つ、置き引き事件といういうと次の成瀬金太郎の一件も、ここに挙げておきます。
 香川県出身の成瀬金太郎は、盛岡高等農林学校の賢治の同級生で、在学中は賢治といっしょに報恩寺で参禅したこともあり、卒業後も賢治とよく手紙のやり取りをしていました。現存している成瀬あての賢治の書簡としては、書簡48a、55、143の3通があります。
 以下は、『成瀬金太郎小伝』(岩手大学農学部北水会内・成瀬金太郎小伝刊行会発行)の一節で、太平洋戦争末期のことです。

 全国味噌工業組合連合会、全国味噌統制会社を辞職後は家族在住の盛岡と、郷里香川神山村の生家を往復して事態の推移を見守ることにした。将来を考えて盛岡の書籍、家具等使用しない物は出来るだけ安全な所に疎開せねばと思い鉄道便で四国神山の生家へ送ったものの内、梱包一ヶ高徳線造田駅内において盗難にあい無くなったことは、残念でならない。この紛失物の中には宮沢賢治君から贈られた法華経の本、学生時代の記録、南洋拓殖工業株式会社当時の貴重な記録が一杯詰って居たので損害は甚大であった。(『成瀬金太郎小伝』pp.61-62)

 もしもこの造田駅における盗難がなければ、高農時代の賢治に関する資料や、未知の賢治の書簡何通かを、私たちは目にすることができたのではないかと思われ、これも非常に悔やまれるところです。(成瀬金太郎については「成瀬金太郎の生家」も参照)

 ということで私としては、1919年の母イチの荷物の置き引き、1924年の『注文の多い料理店』原稿置き引き、1945年の成瀬金太郎の荷物置き引きを、「賢治にまつわる三大置き引き事件」と呼んでおきたいと思います。

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『注文の多い料理店』扉、表紙、背(『新校本全集』12巻口絵より)