賢治と心平の眼差し

 去る9月21日に、「関西宮沢賢治の会」が比叡山延暦寺で毎年行っている賢治忌法要に参加して来ました。
 今年は、花巻の賢治祭と同様、雨のために碑の前ではなく屋内での開催となりましたが、下の写真のように、延暦寺の高僧の方々の読経によって、しめやかに執り行われました。

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 法要の終了後、延暦寺会館で精進料理をいただいて、午後は草野心平記念文学館の元専門学芸員の小野浩さんによる記念講演「賢治と心平の交友──「発見」から「全集」まで──」がありました。
 法要とは別会場ですが、やはり薬師如来座像を正面にした、ありがたい空間です。

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 小野さんは、賢治と草野心平の関係を跡づける12ページものカラー資料を準備して下さって、いつもながらの軽妙で楽しい講演でした。

20231029a.jpg ところで、小野さんがこの講演の中で紹介して下さった、草野心平による「宮沢賢治論」が、興味深く印象に残りました。
 草野心平が、1931年(昭和6年)7月号の『詩神』(右画像)に発表した、「宮沢賢治論★一読者のノート」と題した生前批評なのですが、これが世に出た頃の賢治は、東北砕石工場の技師として、まだあちこちセールスに回っていたわけです。

 例えば、この中で草野心平は、「宮沢賢治はどんな詩人か」ということについて、次のように述べます。

宮沢賢治はどんな詩人か。
彼は植物や鉱物や農場や虫や鳥や音楽や動物や人物や海や万象を移動カメラに依つて眼いつぱいに展開させる。光と音へ●●●●の異常な感受性●●●●●●●に依つて確適に自然を一巻にギヨウ縮した東北以北の純粋トーキー、彼こそ日本始まつて以来のカメラマンである。

 賢治の作品が「映画的」であることは、本年の宮沢賢治賞を受賞された岡村民夫さんも詳しく論じておられるところですが(『宮沢賢治論 心象の大地へ』)、そのような着眼の嚆矢となる批評です。

 そして、心平の「宮沢賢治論」の中で、私にとって一番興味深かったのは、次の箇所でした。
 賢治の「心象スケッチ」における世界観について、草野心平は次のような見方を呈示しています。

 彼は彼の心象に映る風景の中の一点であり、同時に作品の中の彼も客観的一点であるに過ぎない。主観と客観は相共に融合し彼の全作品にまんべんなくにじんでゐる。スケールの大がここからくる。

 ここで草野心平が描いている景色は雄大で、賢治はその中の一点にしかすぎません。

 一方、賢治が若い頃からあちこちに記していた世界観は一種の「唯心論」で、「この世界は私の心の中の現象(=心象)にすぎない」というものでした。
 例えば、賢治が1918年3月に親友の保坂嘉内にあてた手紙には、次のように書いています。

退学も戦死もなんだ みんな自分の中の現象ではないか 保阪嘉内もシベリヤもみんな自分ではないか あゝ至心に帰命し奉る妙法蓮華経 世間皆是虚仮仏只真(保阪嘉内あて書簡49より)

 「みんな自分の中の現象」なのだから、自分の「心象」をそのままスケッチすることが、宇宙を写し記録することにもなるというわけです。
 言うならば、主体が世界の中の特定の場所にとどまっていて、じっとそこから周囲の全てを見渡している、「内から外へ」という眼差しがあります。

 これに対して、草野心平によれば、賢治も「彼の心象に映る風景の一点であり、同時に作品の中の彼も客観的一点であるに過ぎない」というのです。
 ここには、主体を含む風景全体を、外部から客観的に眺めている、「外から内へ」という眼差しがあるように、私には感じられます。

 思えば、賢治は生涯のほとんどを、生まれ育った花巻で暮らし、花巻で亡くなりました。彼は時に上京したり旅行をしたりもしましたが、基本的に故郷の町を視座として、ずっとそこから世界を見ていたのです。
 「イーハトーブ」は、「ドリームランドとしての日本岩手県」という、世界の中では小さな場所でありつつ、「そこではあらゆる事が可能」なのでした。

 一方、草野心平は、福島県の磐城中学で教師への反抗を続けて中退し、上京して慶應義塾普通部に入ります。しかし東京にも落ち着くことができず、ハワイの野球団が来日すると、一緒にハワイに連れて行ってほしいと頼んで断られたりしていました。地図を見ては、未知の大地が広がるユーラシア大陸に夢を馳せて、ついに17歳の1921年に、中国の嶺南大学に留学したのです。その4年後、排日運動の激化のために帰国を余儀なくされますが、37歳の1940年に南京政府の宣伝部顧問として再び中国に渡り、彼の地で日本の敗戦を迎え、1946年に帰国しています。
 このように草野心平は、実生活の上でもかなりの期間を海外で過ごし、日本を「外から」眺める眼差しを持つ人だったのだと思います。故郷の福島には、一時的に帰ることはあっても、長く留まることはありませんでした。

 宮澤賢治と草野心平という、いろいろと通じ合うところもあった二人の詩人ですが、ここは好対照を成していたように思います。

 ところで下の写真は、いわき市の草野心平記念文学館の大きなガラス窓に記された、「猛烈な天」という彼の詩です。
 「仮令無頼であるにしても眼玉につながる三千年。/その突端にこそ自分はたちます。」という一節に、草野心平が世界を見る眼差しの、苛烈さを感じます。

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猛烈な天

血染めの天の。
はげしい放射にやられながら。
飛びあがるやうに自分はここまで歩いてきました。
帰るまへにもう一度この猛烈な天を見ておきます。

仮令無頼であるにしても眼玉につながる三千年。
その突端にこそ自分はたちます。
半分なきながら立ってゐます。

ぎらつき注ぐ。
血染めの天。
三千年の突端の。
なんたるはげしいしづけさでせう。