『心の花』掲載の『春と修羅』広告

 万葉集研究でも著名な歌人佐佐木信綱は、1898年(明治31年)に歌誌『心の花』を創刊し、短歌結社「竹柏会」を結成しました。これ以来現在も刊行を続けている『心の花』は、今年で125周年となり、これは現存する短歌雑誌の中で最も長い歴史を持つということです。
 賢治の親友保阪嘉内は、この短歌結社「竹柏会」の同人でした。1921年(大正10年)6月に甲府で行われた、竹柏会山梨支部の発会記念の会にも出席しています。(下写真は、甲府瑞泉寺で行われた竹柏会山梨支部発会記念会、保阪嘉内は後列左から2人目。山梨県立文学館『宮沢賢治若き日の手紙』p.64より)

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 この短歌誌『心の花』の1925年(大正14年)5月号の「消息」欄には、次のような記事が載っています。

保坂嘉内●●●●氏は佐藤さかへ●●●●●ぬしと結婚せられた(『心の花』29巻5号p.82,「坂」の字は原文ママ)

 また、翌1926年(大正15年)2月号の「消息」欄には、次のようにあります。

保坂嘉内●●●●氏は一月三日男子を擧げられた新春殊にめでたい(『心の花』30巻2号p.90,「坂」の字は原文ママ)

20230903a.jpg 一方、上記の「消息」が掲載される少し前の、『心の花』1924年(大正13年)11月号の最終頁には、「關根書店販売書目」として、右画像のような『春と修羅』の広告が掲載されています。
(この資料は、国会図書館デジタルコレクションにて「送信サービスで閲覧可能」となっており、元の画像をそのままウェブ公開することはできませんので、右の画像は元と同様に文字を配置して作成した模像です。国会図書館の利用者登録をしておられる方は、ログインして元の画像をご覧下さい。)
 『春と修羅』と並んで広告されている関根書店の書籍は、『アルセーヌルパン叢書』『縮刷 萬葉集』『縮刷合本 古今集 新古今集』です。

 さて、『心の花』にこの『春と修羅』の広告が掲載されたのは、同じ雑誌に保阪嘉内の結婚の消息が載る6か月前のことですから、嘉内は確実にこの広告を見ただろうと思われます。
 それでは、嘉内はいったいどんな思いで、親友のこの処女詩集の広告を見たのでしょうか。彼はその時までに、賢治が詩集を出版したことを知っていたのでしょうか。

 一方、賢治の方は自ら嘉内に『春と修羅』を贈呈していたということで、大明敦著『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』には、次のように書かれています。

 ちなみに、保阪家には嘉内が賢治から贈られた『春と修羅』が現存する。嘉内はその扉に「大正拾参年拾月 宮澤賢治兄より」と記し、何度も何度も読み返したのであろう。本も、箱も壊れているが、それが丁寧に補修されている。(p.118)

 すなわち、賢治が嘉内に『春と修羅』を贈ったのは大正13年(1924年)10月だったようなのです。となると、嘉内は1924年11月号『心の花』の広告を見た時点では、既に『春と修羅』を手にしていたのかと思われますが、しかし皆様もご存じのように、雑誌の「〇月号」というのは、だいたいその前の月に刊行されるのが出版の慣習になっています。
 したがって、11月号の『心の花』が、10月中に刊行された可能性も大きいのです。

 そうなると、嘉内が『心の花』で『春と修羅』の広告を見たのと、賢治から贈られた『春と修羅』を受け取ったのと、どちらが先だったのか、その前後関係はなかなか微妙な感じです。
 もしも嘉内が、賢治の詩集刊行を知らずに突然広告を目にしたら、その驚きは相当なものだったでしょうし、贈呈を受けた直後だったら、手元の詩集をとても誇らしく思いつつ、広告を眺めたことでしょう。

 実際のところはわかりませんが、とりあえずこの前後の出来事を、時系列順に整理しておきます。

1924年4月:賢治が関根書店から『春と修羅』を刊行
   10月:賢治が嘉内に『春と修羅』贈呈?
   11月:『心の花』に『春と修羅』広告掲載
   12月:賢治が光原社から『注文の多い料理店』を刊行
1925年5月:『心の花』に嘉内結婚の消息掲載
     6月:賢治から嘉内あて書簡207
1926年2月:『心の花』に嘉内の長男誕生の消息掲載

 賢治は、『注文の多い料理店』も1925年の初め頃に嘉内に贈呈したようですが、その年の6月に出した上記の書簡207では、「童話の本さしあげましたでせうか」と、何気なく尋ねています。大明氏の前掲書では、これは「嘉内が便りに童話集のことを書いてよこさなかったので、賢治一流の表現で感想を催促している」と解釈されています。