陰画としての「ばけもの世界」

 ご存じのように宮澤賢治には、人間以外の生き物を主人公とした童話が、たくさんあります。
 猫が仕事をする官衙を描いた「猫の事務所」、蛙たちが活躍する「蛙のゴム靴」や「カイロ団長」、鳥たちの心理に分け入る「二十六夜」や「烏の北斗七星」など、これらの物語に共通するのは、その作品世界は主人公である生き物を中心とした視点で構築されている、ということです。たとえ人間が登場しても、そこで人間はあくまで主人公たちの基準で彼らの側から見られており、その世界の周縁部に位置付けられるにすぎません。たとえば蛙たちは、話題の一つとして人間を取り上げることもありますが、「ヘロン」という蛙独自の言葉で呼んでいます。梟にとって人間は、あまりに残酷な殺戮者です。「朝に就ての童話的構図」という小さくも美しい童話では、徹頭徹尾「蟻」を中心に、その視点から見た世界が描かれます。

 一方、「〔ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記〕」は、人間ではない「ばけもの」が主人公のお話であり、終始「ばけもの世界」において物語が進行することにおいては上記と同じです。
 しかし、彼らの世界と人間世界の関係性については、上の生き物たちのお話と重要な違いがあります。

 どういう違いかと言いますと、実はネネムたちが生きている「ばけもの世界」というのは、オモテ側にある「人間世界」のウラ側にある世界であり、たまたま物語の中では「ばけもの」の方に焦点が当たっていますが、俯瞰して大きく全体像を見るならば、その中心や主体は、あくまでも人間界の方にあるのです。
 たとえば、ばけものたちは「ばけもの世界長」の許可なく人間界に顔を出すことは禁じられており、勝手にその境界を越えてしまうと「出現罪」に問われますが、この「出現」という言葉は、ばけものではなく人間の側から見た表現です。もしもばけもの世界の方からこれを見るなら、あちらの世界に行って姿を消してしまうわけですから、「蛙のゴム靴」の初期形「蛙の消滅」のように、「消滅」と呼ぶべき事態でしょう。
 ネネムはばけもの世界裁判長として、人間界に「出現」して人を驚かせたザシキワラシやウウウウエイを処罰しますが、判決によればその目的は、人間世界の方の安寧を守ることにあり、ばけもの世界にとっての秩序維持ではありません。ばけもの界と人間界の間の主従関係ということを考えてみると、人間の方が「主」で、ばけものは「従」に甘んじているように見えてしまいます。

 つまり、賢治が構築した作品世界において、ばけものたる者はつねに人間から身を隠し、人を驚かしたり迷惑をかけたりしないよう注意深く過ごさなければならず、言わば人間から見えない所に隠れて生きるべき、「日陰」の存在なのです。
 この「〔ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記〕」というお話は、一見すると破天荒で底抜けに明るい作品のようにも思えますが、一方で何となく根底に悲哀感が感じられる要因の一つは、ばけものたちが宿命として背負っている、このような「日陰者」性にあるのではないでしょうか。
 これがたとえば「朝に就ての童話的構図」ならば、ちっぽけな蟻は一本のきのこの成長にさえあたふたと動揺するものの、それでいて蟻の歩哨にも子供にも、凜とした矜恃がみなぎっており、ネネムや部下たちが最後に見せる情けなさとは、好対照をなしています。

 ところで、同じくおばけの世界を描きながらも、「ゲゲゲの鬼太郎」の主題歌では、次のように歌われています。

ゲッ ゲッ ゲゲゲのゲー
朝は寝床でグーグーグー
たのしいな たのしいな
おばけにゃ学校も しけんもなんにもない
〔中略〕
ゲッ ゲッ ゲゲゲのゲー
夜は墓場で運動会
たのしいな たのしいな
おばけは死なない 病気もなんにもない

 ここで謳歌されているおばけの世界は、人間世界よりもずっと楽しそうで、またそれを人間に対して得意気に自慢しているものですから、毎日学校に行かなければならない小学生だった私には、おばけがとてもうらやましく感じられたものでした。それに、鬼太郎たち妖怪は、人間の世界に「出現」することに露ほどの後ろめたさもなく、自由に闊歩しています。
 まさにこれこそが、おばけの世界の側を中心とした世界観だと思います。

 これに対して「〔ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記〕」では、ばけもの世界は人間世界との対比においてポジティブなものとして設定されておらず、あたかも人間界の「陰画」とでも言うべき地位に、甘んじているのです。

 ここで疑問に思うのは、他の作品ではつねに主人公を中心に据えて、彼らに暖かい眼差しを注ぐ賢治なのに、この作品に限ってはなぜか主人公に「日陰」で「裏側」の性質を帯びさせた理由は、いったい何だったのだろう、ということです。私としてはとても不思議に感じるのですが、賢治はネネムたちに対して、心からの感情移入をしなかったのでしょうか。

 この問題に対して私自身は、実は賢治はネネムに対して、自らのある部分をあまりにも切実に投影していたからこそ、このような設定になったのではないか思うのです。
 賢治がこの作品を書いたのは、農学校に就職してまもない1922年前半頃と思われますが、ここにはこの頃の賢治が世間に対して感じていた、ある種の「疎外感」ないし「馴染めなさ」というようなものが、込められているのではないかと思うのです。

 それはたとえば、「春と修羅」において、すれ違う農夫に対し、

けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか

と嘆じざるをえなかった、彼我の隔絶感にも通ずるものでしょう。
 また、農学校に就職した初期の賢治は「かたい感じ」(『証言 宮澤賢治先生』p.46)で、授業は早口で生徒には聞き取りにくく、「ちっともわからん、ちっともわからん」と言われていたそうですし(『証言 宮澤賢治先生』p.144)、また「けむたがられて居りまする。笑はれて居りまする。授業がまづいので生徒にいやがられて居りまする。」(保阪嘉内あて書簡199)と自嘲しているように、教師として学校にすぐにはうまく適応できなかったことも、関係しているかもしれません。

 また、賢治の心理をもっとさかのぼってみると、彼は昔から人前ではことさら含羞を見せ、自己抑制が強かったようなのです。

 兄は家族たちと一しょに食事をするときでさえ、何となく恥ずかしそうに、また恐縮したような恰好で、物を噛むにもなるべく音をたてないようにした。また、前かがみにうつむいて歩く恰好や、人より派手な服装をしようとしなかったことなど、孰れも子供のときからというよりは、前生から持って生まれた旅僧のようなところがあったと思うのである。(宮沢清六「兄賢治の生涯」)

 すなわち、賢治の一つの性質として、人前で目立つようなことは避け、それこそ「日陰」を好むような傾向があったらしく、これは「〔雨ニモマケズ〕」において、「ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ」と自らに望んだことにも表れているように思います。もしもこれが賢治の真意ならば、いつも物陰に隠れている方を好むでしょう。
 ところが一方で、皆様ご存じのように、賢治には上記と全く対照的な側面もあったのです。農学校にも慣れてきてからは、「茶目っ気が出てきた」と周囲から言われ、また気分が高揚すると突拍子もないことをして皆を驚かせる、「お調子者」的な性質も見せるのです。

 妹のシゲは、このような「抑制的」な面と「お茶目」な面の双方について、次のように回想しています。

 兄さんは九月東京から帰ってから十二月花巻農学校に就職しましたが、先生としての仕事は、たやすいらしく、たのしそうにやっていました。学校から帰りますと、としさんの病床のある部屋で、その日見聞きしたことを、おもしろおかしくして、みんなを笑わせました。おなかが痛くなるくらい笑わせられ、苦しくなって、「やめてやめて」と言わなければなりませんでした。
 こういうことは、お父さんが外出中のことで、お父さんが家にいると、兄さんは、借りてきた猫のようでした。家の中を歩くのでも、お父さんのいる居間などは、少し半身にかまえて背をかがめて、少し手を前に出すような格好で歩いていました。(森荘已池『宮沢賢治の肖像』p.227〈シゲさんの話〉)

 上の前半部には、ユーモアたっぷりなお調子者の面が、後半には清六氏の言う「前かがみにうつむいて歩く恰好」に象徴される、努めて自らの存在を消そうとするほどの謙抑さが、対比も鮮やかに記されています。
 そして、このシゲの回想でぜひ注目しておくべきポイントは、賢治の持つこの対照的な二面性を形成しているのは、「父親の存在」だということです。

 シゲの文章から推測するに、おそらく賢治の本来の性質は、皆と一緒に可笑しなことを言って盛り上がるのが大好きな「剽軽者」のようですが、父親の前でそんな軽薄な言動をしているとガツンと叱られるので、父がいる場ではなるべく自分を抑制して目立たぬようにしていた、ということなのではないでしょうか。清六氏は「家族たちと一しょに食事をするときでさえ、何となく恥ずかしそうに、また恐縮したような恰好」をすると書いていますが、実はこれは、「父親が一緒にいる」ことの影響だったのではないかと思います。

 つまり、「〔ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記〕」において、ネネムがどんどん階梯を上昇して行って、最後には火山の噴火に合わせて部下たちとともに歌い、踊り狂うという破天荒さは、舞い上がったお調子者の賢治に相当するのでしょうが、彼のそのような本性は、決して父親の前に「出現」させてはならないものだったのです。それは、父の目に触れない範囲でのみ密かに存在を許される性質であり、表向きは慎重に隠蔽していなければなりませんでした。
 実際おそらく、賢治が内奥に秘めているこのような激しい享楽的・芸術家的な気質は、父親から見ればまるで「ばけもの」のような属性だったでしょう。

 政次郎は賢治を、早熟児で、仏教を知らなかったら始末におえぬ遊蕩児になったろうといい、また、自由奔放でいつ天空へ飛び去ってしまうかわからないので、この天馬を地上につなぎとめるために手綱をとってきたといい、また、世間で天才だの何だのいわれているのに、うちの者までそんな気になったら増上慢の心はどこまで飛ぶかしれない。せめて自分だけでも手綱になっていなくてはいけないと思った、といっている。(『新校本宮澤賢治全集』第十六巻年譜篇p.21)

 思えば「修羅」というのも、人間にとっては「ばけもの」の一種ですが、この頃の賢治が自らを投影しているのではないかと思われる作品には、「〔若い木霊〕」の「木霊」とか、「土神ときつね」の「土神」など、どこか人間とは異質な、異形のキャラクターがいくつか見られます。
 ネネムや修羅とともに、これらの存在もまた、賢治が自らのある部分を象徴させた「ばけもの」の系列に連なる者のように、感じられます。

 ということで、賢治は自らの内にある、父親や社会の規範にはどうしても収まりきらず、それらから疎外され居場所をなくした自分を持て余し、そしてそれが秘めた制御できないほどのエネルギーにおののきつつ、しかしそこに稀有なポテンシャルも感じつつ、屈折した形に造形した作品が、「〔ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記〕」だったのではないかと思うのです。