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加藤咄堂『心の研究』と「小岩井農場」

20211010a.jpg 国会図書館デジタルコレクションに、『盛岡高等農林学校図書館和漢書目録』という本が収められています。これは、1934年(昭和9年)3月の時点で同校の図書館が所蔵していた和漢書の、総目録です。図書の総数は書かれていませんが、ページ数からざっと見積もると、1万数千冊くらいになるでしょうか。
 宮澤賢治が盛岡高等農林学校に在籍していたのは、1915年4月の入学から1918年8月の研究生退学までですが、この期間までに刊行されいてる書籍を目録で見れば、賢治在学時の図書館の蔵書がどういう内容だったのか、すなわちどんな本を賢治が目にした可能性があるのかということも、概ね見当を付けることができます。

 先日、この目録を何となく眺めていたところ、1908年(明治41年)に刊行された加藤咄堂著『心の研究』(森江書店)という本が、目にとまりました(同書p.354)。

 加藤咄堂という人は、明治後半から第二次大戦後まもなくまで活動した仏教学者・著述家で、仏教、人生論、雄弁術等に関する厖大な著作があります。『盛岡高等農林学校図書館和漢書目録』には、『心の研究』以外にも、『運命観』(明治37刊)、『冥想論』(明治38刊)、『人格之養成』(明治40刊)、『大死生観』(明治41刊)、『修養論』(明治42刊)、『原人論講話』(明治43刊)、『修養小品』(大正4刊)、『観音経講話』(大正12刊)、『演説文章応用修辞学』(大正12刊)の9冊が収録されており、彼の本は当時かなり読まれていたことがわかります。

20211010b.jpg さて、この加藤咄堂著『心の研究』も、国会図書館デジタルコレクションに収められています。その内容は、第一章緒言「心とはなんぞや」から始まって、人間の「心」に関する仏教的な教理と、西洋の哲学や心理学の理論を紹介しつつ、結局は仏教の神髄と西洋近代の哲学・心理学は、同じようなことを言っているのだ、という話にまとめていくものです。東洋の仏教と西洋の科学の統合を思い描いていた賢治にとっても、きっとこれは興味を引かれる内容だったのではないかと思います。
 とりわけ加藤はこの本で、「心的現象」のことを「心象」と呼んでおり、「第三章 意識」において、「心象の分類」とか「心象の聯合」などの説明が続いているところなどは、「心象スケッチ」を標榜した賢治との関連で、目を引きます。

 また加藤は、「第六章 識体」の第四節「心的一元論」において、次のように「宇宙精神」についても語っています(『心の研究』pp.154-157)。

心的一元論は多くの哲学者の帰一する所にして遠くはプラトーン、アリストテレースより近くはスピノザ、カントに至るまで皆な総該万有一心に向はざるなし、総該万有一心とは宇宙精神(worldsoul)なり吾人は個々の事象の統一せられ連絡せらるゝを見て「渾一体」なりてふ思想に到達せざるを得ず〔中略〕
一塵の微といへども、之れが生起を尋ねんには普く全宇宙に亘らざるべからず、一塵、法界を悉くし、一法界は一塵に摂る、これを渾然一如の霊体と見ずして将た何とか見ん、総該万有一心といひ、宇宙精神といふもの之れが命名に外ならざるなり。
〔中略〕
吾人の肉体は無数の細胞を包括して成り、こゝに吾人の精神あり、然らば吾人の肉体を包括して、之れに生命を与へ、之れに活動を試みしむる地球にはこれら部分的精神を包括する統一的精神の存するにあらざるか。かくて此類推の範囲を拡張し行かんか、吾人は終に宇宙精神の存在に至り、彼のパウルゼン氏の云ひしが如く、吾人の肉体は吾人の精神の表現たるが如く、宇宙は宇宙精神の顕現なり神の肉体なりと云はざるを得ざるに至るべし、識の本体こゝにあり、心の源泉又実に之れより迸り出づるの外なし。

 この加藤の「宇宙は宇宙精神の顕現なり神の肉体なり」という言葉などは、先日話題にしたスピノザを思わせる汎神論の表明であるとともに、賢治の「農民芸術概論綱要」の、「自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する」や「新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある」なども、連想させます。

 そして、この本の最終章「第七章 霊覚」は、「一、霊性の隠覆」と「二、霊性の発揮」の二節から成っています。
 まず「霊性の隠覆」では、人間が本来分かち持っているはずの、上記のような「宇宙精神」が、様々な我執によって曇らされ、迷いに囚われているのだということが、述べられます。

心識の本源には宇宙の霊体あり、湛然たる心海に無窮の万象を蔵して動くことなし、唯だ無明煩悩の風に誘はれて我執の波を生じ、此我執によりて迷悟、是非、善悪、邪正、好悪、愛憎の心を起し、之れを本として貪瞋痴慢疑等の迷ひを生ず。

 ここには、仏教の中でも『大乗起信論』やその影響を受けて日本で発達した「天台本覚思想」に見られるように、人間の心の本性はもともと真如や仏であって、ただ現実世界の中でそれを見失っているにすぎない、という考え方が見てとれます。
 そして私は、この発想の方向性と、賢治が「小岩井農場」に記している「宗教的情操→恋愛→性慾」という人間の心のあり方の理解に、共通するものを感じるのです。

  ちいさな自分を劃ることのできない
 この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしよに
至上福しにいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得やうとする
この傾向を性慾といふ

(「小岩井農場」より)

 ここに賢治が書いている、「宗教的情操→恋愛→性慾」という心性の順序について、吉本隆明氏は次のように評しています。

 宗教から恋愛へ、そして性慾へと連続して流れてゆく情操と願望のうつりかわり(変態)という理念は、宮沢賢治の生涯の理念であるとともに、生涯によってじっさいに演じられたドラマだった。この考え方はふつう倒さだ。人間の身体の生理的なうつりゆきの必然的な過程で、性慾がきざし、さかんになり、思春期にはいって、ひとりの異性をもとめる願望に結晶してゆく。この願望がうまく遂げられず、そのあげく宗教的な自己救済や人間救済の願いを持つようになる。そんな過程はありうる。だがこの逆はない。宮沢賢治がスケッチャーとしてここで展開している考え方は、逆だった。これはただの詩的修辞とみなさないとすれば、宮沢賢治の生涯の謎を理念化したものだといえる。(吉本隆明『宮沢賢治』(筑摩書房)p.267)

 吉本氏が言うとおり、発達心理学的には、「性慾→恋愛→宗教的情操」という方向性で心は発展していくものであり、賢治の考えは「倒さ」です。しかし、ここで吉本氏が「宮沢賢治の生涯の謎」と言っているところのものは、元をたどれば、仏教とりわけ大乗起信論や本覚思想に由来する考え方なのではないでしょうか。これらの思想では、元は清浄であった心が、迷いに堕ちていくという順序で考えるのです。

 実際、加藤は『心の研究』のこの節で、恋愛と色欲の関係について、次のように述べています(p.172)。

 尚ほ一個の吾人の感情慾望支配し霊性を撹乱せしむる有力のものあり、人生之れあるが為め波瀾多く、我心之れあるが故に動揺す、他なし色欲、異性相愛の恋情之れなり、恋情発動の原因は自然の生理的要求に出るものにして、之れに異性美を望む感覚的要求加はり、終に影の形に添ふ如く自己と生活を共にする生活的要求をも具するものにして、之れが為には名誉も財利も忘れ、思慮も分別も逸失す、其肉体的なるものは認めて劣情とし精神的なるものは高尚なりとするも畢竟異性の恋情は此肉慾と分離し得べからざるものなれば、単に「愛は神聖なり」として之れを高尚なることの如く思惟するも誤なれば、獣慾なりとして斥くるも亦可なるものにあらず、シヨツペンハワーが、

恋愛は一見甚だ高尚なるが如く神なるが如きも其根本を査究すれば結局色慾に外ならず

といひしは一面の観察に過ぎねど形態を離れたるプラトニック、ラブ(Platonic love)ならざる限りは色欲と分離し得べからざるに似たり

 このあたりは、賢治の「恋愛→性欲」という部分に対応しているように感じられます。加藤と同じく、賢治は恋愛と性慾を区別し、しかも恋愛を決して美化せず、むしろそれは斥けるべきものとして描きます。

 そして、加藤咄堂著『心の研究』の最終節「霊性の発揮」は、次のように始まります(p.176)。

 本覚の霊性は感情と欲望の為めに蔽はれて黒暗々として其光を認むる能はざるに至れども、根本の霊光は黒闇を破らずんば止まじ、大乗起信論に於ては之れを名けて真如内薫の力といふ、試に想へ、吾人の心象は如何に乱れたりとも尚ほ確かに其奥底には真を求め、善を求め、美を求むるの情操あるに非ずや、其真を求むるものを智力的又論理的情操といひ、其美を求むるものを審美的情操といひ、其善を求むるものを倫理的情操といふ

 ここで加藤が、「智力的情操」「審美的情操」「倫理的情操」として用いている「情操」という言葉は、賢治が「小岩井農場」に書いている「宗教的情操」と、きれいに対応しています。
 人間は、本来はこのような「情操」を有しているにもかかわらず、「感情と欲望の為めに蔽はれて」しまうと、これが「恋愛」になり、さらに「性慾」に堕してしまうというのが、加藤の論旨であり、また賢治の「小岩井農場」の命題なのです。

 ということで、賢治は盛岡高等農林学校の在学中に、加藤咄堂の『心の研究』を読んでいて、その思想が後に彼の「宇宙精神」の考えや、「小岩井農場」における「宗教的情操→恋愛→性慾」という定式に反映したのではないか……というのが、本日の私の憶測でした。