高橋源一郎『銀河鉄道の彼方に』

 お盆の休みに、高橋源一郎著『銀河鉄道の彼方に』という小説を読みました。
 例年ならばこの時期の休みには、岩手地方を旅行していることが多いのですが、今年は先月末の催し物の準備で慌ただしく、旅行のことなど考えている余裕がないままに日が過ぎ、終わってみたらもう交通機関の予約など間に合わない時期になっていましたので、どこも行かずに家で過ごすことになったのです。
 しかし、この際にと部屋を片付けていたら腰を痛めてしまったり、タイガースの応援に京セラドームへ行ったらボロ負けをしたりと、散々な休みだったのですが、まあ他にあまり大したことをしなかったおかげで、この500ページ以上もある大冊を読むことができたとも言えます。

銀河鉄道の彼方に 銀河鉄道の彼方に
高橋 源一郎 (著)
集英社 (2017/8/22)
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 高橋源一郎氏というと、すでに『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』で2006年の宮沢賢治賞を受賞しておられますが、賢治の24の作品をモチーフとしたこの短篇集には、なぜか「銀河鉄道の夜」は登場していなかったのです。当時その理由を尋ねられた高橋さんは、「『銀河鉄道の夜』だけで一冊の本を書くつもり」と答えておられて、その言葉を裏切らずに登場したのが、今回の『銀河鉄道の彼方に』だったというわけです。

 また高橋さんは、「銀河鉄道の夜」という物語は、「100回読めば100回の違った感動を味わえる」とも語っておられます。4回離婚して5回結婚しただとか、競馬好きが高じて競馬評論家もやっているとか、学生運動にのめり込んで凶器準備集合罪で半年間拘置所に入っていたとか、一般的な宮澤賢治のイメージとは対極的なエピソードの多い高橋さんですが、実は本当に宮澤賢治をお好きなんだなあということが、前作からも今作からも、ひしひしと伝わってきます。

 具体的な内容についてのネタバレは避けます、本の帯や広告に書かれている程度のこととしては、この物語ではジョバンニの父は北の海の漁師ではなく宇宙飛行士であり、「あまのがわのまっくらなあな」という謎の言葉を残して失踪してしまったという設定になっています。
 賢治の原作「銀河鉄道の夜」のあちこちの部分は、様々に変奏されながら何度も作中に登場しますが、それ以外に引用される作品としては、「青森挽歌」、「なめとこ山の熊」、「飢餓陣営」などがあります。ところどころ、いかにも賢治らしい文体で書かれた箇所もありますし、賢治自身が姿を現すところもあります。

 この物語には、通常の意味での「ストーリー」というものはありません。多彩な形や階層で断片化された部分を積み重ねつつ、「生」、「宇宙(世界)」、「時間」、「存在と虚無」、「意識」、「愛」と言った、いくつかの鍵になる概念のまわりを巡ってテキストが進行していきます。
 そして、それらの鍵概念を貫くものとして作中で最も重要な役割を果たしているのが、「言葉」です。多くの登場人物が、「言葉」を必死で紡ぎ出し、捉まえようと追いかけ、何とかして存在とともに定着させようとし、いつしかそれを諦めていきます。
 そのサイクルは、世界に生まれて言葉を獲得し、愛しつつ生き、徐々に意識が解体して死んでいく人間の一生のようでもあり、人間に限らず有機物も無機物も含めた多くの存在がたどる運命かとも思わせます。

 この『銀河鉄道の彼方に』というタイトルからは、何となく天沢退二郎さんの『宮澤賢治の彼方へ』という本も連想したりします。高橋さんの描く登場人物が懸命に「言葉」を紡ぎ出し、捉まえようとしている様子は、天沢さんが分析したように賢治がやむにやまれず「心象スケッチ」を書き連ねていくところと、どこか共通した感じもあります。

 近視眼的に、「小岩井農場」における詩人の眼とペンの正確さにとらわれることは、この詩の長大さが示す詩人の膂力・持続する記述のエネルギーを讃嘆すること ― あるいは逆にその冗長さを詰ること ― と同じ、まずい読み方といわねばならない。この必ずしも傑作・成功作とはいえない作品をぼくらが重視するとは、単なる正確な描写・記録の長さ、あるいはそれらを支える精神の柔軟さみずみずしさなどという問題でははるかになくて、それらの徹底された特質が両者あいまってついに詩人の意識の分裂にどのような決着をつけてしまうか、ついに詩人をどのような決定的な喪失へ、どのように必然的に導いてしまうかを、作品生成の劇の中に見ようとすることなのである。(天沢退二郎『宮沢賢治の彼方へ』)

 「心象スケッチ」によって賢治は、言葉を発する主体vs.その対象とに分裂しながらも、どうにか「向ふから迫つてくる」幻想に壊されずに、自己を保つことができました。
 『銀河鉄道の彼方に』の登場人物も、孤独な宇宙船で「手記」を書いたり、毎日自分のための「本」を書いたり、様々な形で言語化を努めることによって、解体していく自己を守ろうとしていました。それはある程度まではうまくいき、しかしさらに長い時間が経つうちには、もはや押しとどめようがなくなっていきました。
 そしてこの物語の登場人物は、それも受け容れて生き、愛し、死んでいくのでした。

 これは、以前の『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』同様、好き嫌いは分かれる作品かもしれませんが、宮澤賢治の世界がこんな風にも脱構築されるのか…という面白さは味わわせてくれる本です。