去る4月27日、岩手県紫波郡紫波町にある城山に、賢治の文語詩「丘」を刻んだ詩碑が建てられ、除幕式が行われました。宮澤賢治没後80年を記念したもので、地元紫波町の「城山に宮澤賢治文学碑を建てる会」の活動が実を結んだものです。
残念ながら私は除幕式に行くことはできなかったのですが、先月の連休に訪問して、写真を撮影してきました。
城山は、下記の場所にあります。
私が訪ねた5月5日はあいにくの曇り空でしたが、城山公園では「桜まつり」が行われていました。
この城山の「二の丸広場」という場所に、文語詩「丘」の詩碑が建てられました。
写真のように、詩の中から二連を抜粋して刻んだ「主碑」と、詩全文を刻んだ「副碑」から成る、立派なものです。
直立した「主碑」に一部の抜粋を刻み、斜め水平の「副碑」に全文、という組み合わせは、「元祖賢治詩碑」たる花巻の「雨ニモマケズ」詩碑と、くしくも同じ構成です。左右は逆ですが。
「主碑」の方に刻まれているテキストは、下記です。
文語詩 「丘」 より
宮澤賢治野をはるに北をのぞめば
紫波の城の二本の杉
かゞやきて黄ばめるものは
そが上に麦熟すらしうちどよみまた鳥啼けば
いよいよに君ぞ恋しき
野はさらに雲の影して
松の風日に鳴るものを宮澤星河書
そして「副碑」の方には、「丘」の全文が刻まれているのですが、主碑は美しい行書体で書かれているのに対して、この副碑はきちんとした楷書体です。「主碑を補助して一般の人の理解を深める」という趣旨を感じさせます。
◇ ◇
もともとこの「丘」という文語詩は、1914年(大正3年)6月に詠まれたと推測されるいくつかの短歌に由来しています。
山上の木にかこまれし神楽殿 179
鳥どよみなけば
われかなしむも。志和の城の麦熟すらし 179a180
その黄いろ
〔きみ居るそらの〕
こなたに明し神楽殿 179b180
のぼれば鳥のなきどよみ
いよよに君を
恋ひわたるかも
言うまでもなくこれらの短歌は、同年4月の岩手病院入院の際に恋した看護婦のことを思って作られたものです。
賢治が立っているのは胡四王山(183m)、そこからおよそ20km北にある紫波町の城山(181m)を遠望することは可能なようですが、そこにある「二本の杉」や、麦が黄色に熟しているところまで見えたというのは、ちょっと驚きです。『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』において小川達雄氏は、次のように記しておられます。
賢治は並はずれた視力を持っていたのかもしれないが、しかし、城跡という遠い緑の丘を眺めて、そこに麦の色の気配を察知し、二本杉の所在を認めることができたのかどうなのか。思うにこれは、賢治がそれまでに何度か志和の城にやって来ていて、それで麦畑や二本杉を知っていた、ということではあるまいか。その記憶があったために、遠いかすかな緑の突起を二本杉と見、城跡の上のかすかな明るさは麦の色、と見ることが出来たのではないかと思う。
そのようなことだったのかなあと、私も思います。
ちなみに、城山に実際にあった「二本杉」の大正時代の写真が、上掲書に載せられています。
小川達雄著『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』より
また、「志和の城の麦」という箇所も、城山とどういう位置関係にあったのか気になりますが、これについて小川氏は、城山の通称「若殿御殿跡」と呼ばれた広場が、大正時代には広い麦畑になっていたという話を紹介しておられます。賢治は、城山に麦畑があるということをあらかじめ知っていたからこそ、見えるか見えないかという程度の「黄いろ」でも、それを「志和の城の麦」と表現することができたのでしょう。
ちなみに「若殿御殿跡」という場所は、現在の「二の丸広場」に相当するようで、今回の詩碑が建立された場所です。
この「丘」という作品は、作者自身が立つ胡四王山の鳥や松風から始まり、途中に「紫波の城」を経て、さらに遠くて見えない「かのまち」に思いを馳せるという構成になっています。最終形に書かれたことだけでは、「きみ」と「かのまち」を特定しきれないかもしれませんが、その「下書稿」に、
今日もまた病む人を守り
つゝがなくきみやあるらん
とあることから、きみ=看護婦であることが裏付けられ、「君が棲むまち」とは、岩手病院のある盛岡だと確定できます。
今回、城山にこの詩碑が建てられることになった契機の一つは、この看護婦が、紫波町の日詰出身の高橋ミネさんではないかという説があることによります。
確かに、この作品に登場する、花巻―紫波―(盛岡)という三つのポイントのうち、花巻と盛岡は、自分と相手がそれぞれいる場所だから当然として、その間に紫波が出てくる意味は何なのか、ということには興味を引かれます。賢治がこの地にも特別な意味をこめて眼を向けていたとすれば、それは「高橋ミネ説」を支持する根拠の一つとして数えることも可能でしょう。
しかし、あらためて何度も作品を読み返してみても、これについては何とも言えない感じです。作品に「紫波」が登場する直接の理由は、下書稿において
野のきはみ北をのぞめば
紫波の城の二本の杉
として出てくるように、このポイントが賢治にとって、北を望む視界の「限界点」であったからでしょう。
詩碑の前を去るにあたり、二の丸広場から南の方を眺めてみましたが、残念ながら胡四王山は見えませんでした。
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