19世紀終わりから今世紀初頭にかけて活躍した、アレニウスというスウェーデンの化学者がいました。(右写真はウィキメディア・コモンズより)
その業績は、物理学・化学・天文学・免疫化学など多岐にわたり、「物理化学 physical chemistry」という領域の創始者の一人でもあります。今で言うこの「物理化学」という分野のことを、大正初期に東北帝国大学教授であった片山正夫博士は、邦語で「化学本論」と呼ぶことにしてその主著のタイトルともしましたから、同書を座右に置いた宮澤賢治にとっては、アレニウスは自然科学におけるヒーローの一人だったのではないかと思います。
そのアレニウスの著書の邦訳が出たら、賢治もきっと読んだに違いないと推測したくなりますが、賢治が盛岡高等農林学校に入学する前年の1914年(大正3年)に出版された『宇宙発展論』(一戸直蔵訳)は、まさにそのような一冊です。(右写真は国会図書館・近代デジタルライブラリーより)
この本には、空気中の放電によって窒素化合物が生成し、それが雨によって降下することで植物を肥やすという記述(p.196-197)や、空気中の炭酸ガスが増加すると温暖化が起こり、作物の収穫の増加につながるとの記述(p.85)があり、これらはいずれも「グスコーブドリの伝記」における未来科学的なアイディアと一致するものです。この二点は、『新宮澤賢治語彙辞典』も「アレニウス」の項目で指摘しているところで、さらに同辞典は「太陽系」の項目において、「賢治がこの本を読んだ可能性は非常に高いと言える」と述べています。
例えば、下に同書p.85の炭酸ガスによる温暖化に関する記述の部分を引用してみます。火山の爆発は被害も起こすけれども、大気中の炭酸ガスの増加は特に寒冷地において「一層良好なる気候」と「豊饒なる収穫」を与えうると述べています。
吾等は、地中に貯蔵せる石炭が現今将来に対する何等の念慮なくして漫りに徒消せられつつありとの怨言を耳にすること屡々なり。且つ吾人は火山爆裂によりて蒙むる恐るべき生命財産の破壊によりて震駭せしめらるること屡々なり。されど吾人はここも、他の有らゆる場合に於て然るが如く、善は常に不善と随伴せらるるものなりてふ諺によれて自ら慰めざる可らず。大気中に於ける炭酸瓦斯の割合が増加するに従ひ、其結果として吾人は一層気温分布の平等なる一層良好なる気候(特に寒冷なる地方に於て)の時代を楽しみ得べきなり。而して其時代に至れば地面は現今に於けるよりも遙かに豊饒なる収穫を与ふべく、かくて急速に拡散しつつある人類の生活に資する所多大なるものあるべきなり。
私も、「賢治がこの本を読んだ可能性は非常に高い」という『新宮澤賢治語彙辞典』の考えに、賛成です。
◇ ◇
現在はこの『宇宙発展論』は、インターネットを通して国会図書館の「近代デジタルライブラリー」でいつでも読めるようになっているので、今日も私はパラパラと眺めていました。
すると、賢治の作品に出てくる表現を連想させる記述が上記の他にもいくつか見られたのですが、とりわけ印象的だったのは、同書p.181の、次の記述でした。
蓋し太陽微塵の大部分は正午頃に落下するを以て極光の大部分も亦正午後数時間最も夥しく起るべきことは、恰かも一日中の最高温度に於けると同じかるべき理なり。
これは、極光(オーロラ)の発生原理を物理学的に説明しようとしている箇所で、「太陽微塵」というのは、太陽から地球に放射されている非常に微小な粒子、現代の用語で言えばプラズマ状態にある「太陽風」のことです。
それにしても、「太陽微塵の大部分は正午頃に落下する」という言葉は、あの感動的な一節をまさに彷彿とさせるではありませんか!
春と修羅
(mental sketch modified)
心象のはいいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲模様
(正午の管楽よりもしげく
琥珀のかけらがそそぐとき)
・・・
例えば「第四梯形」には、「ななめに琥珀の陽も射して・・・」とあるように、賢治は作品中でしばしば太陽の光を「琥珀」に喩えていますから、「正午に太陽微塵が落下する」というのを賢治風に言いかえれば、まさに「正午に琥珀のかけらがそそぐ」にもなろうというものです。
というわけで、やはり私は、賢治がアレニウス著『宇宙発展論』の邦訳をを読んでいた可能性は高いと思うのです。
アレニウス『宇宙発展論』(一戸直蔵訳,大倉書店)p.181
mishimahiroshi
微塵は仏教用語だと思いますが、科学の(化学の)世界でも普通に使われていたようですね。
確かに賢治はその本を読んでいたと思えます。
hamagaki
mishimahiroshi 様、こんばんは。
なるほど、「微塵」という漢語は、元は仏教用語だったんですね。あらためて『仏教辞典』で調べてみました。
賢治においては、「まづもろともにかゞやく宇宙の微塵となりて・・・」とか「このからだそらのみぢんにちらばれ」とか重要な言葉ですが、仏教と自然科学と両方のニュアンスが、彼の中では重なり合っていたのかもしれません。
かぐら川
いつも本題からはずれた書き込みで恐縮ですが、「大倉書店」というと橋口五葉が装丁した漱石の「吾輩ハ猫デアル」が3冊本で出ていますね。おそらくこれはドル箱的出版だったはずで、縮刷版も含め明治38年の初版から大正時代にかけて膨大な数が出ていますね。大倉書房は賢治にとって、漱石のネコの出版社としてなじみ深かったかもしれませんね。なお、大倉書店の大倉孫兵衛はとてもユニークな人物です。この『宇宙発展論』の2年前にアレニウスの『宇宙開闢論史』も同じ一戸直蔵他訳ででていますね。なお、後に、岩波からアレニウス『史的に見たる科学的宇宙観の変遷』 の翻訳を出している寺田寅彦は、一戸とは親しかったようです。
本年もよろしくお願いいたします。
かぐら川
ちなみに、生没年は、片山正夫は1877.09.11~1961.06.11、一戸直蔵は1878.08.14~1920.11.26、寺田寅彦は1878.08.14~1935.12.31。
片山は1900年に東京帝国大学理科大学化学科、一戸は1903年同理科大学星学科、寺田は1903年に同理科大学物理学科の卒業(当時は分科大学制。星学科は天文学科の前身)。
親疎の程度はわかりませんが、この三人に面識があったことは確かですね。
hamagaki
かぐら川 さま、書き込みありがとうございます。
寺田寅彦は片山正夫の1歳年少ですが、東京帝国大学理科大学教授に就任したのは、寺田が1916年、片山は1919年のようですね。
また二人は理化学研究所でも同僚だったようで、こちらでは片山は1922年から、寺田は1924年から、それぞれ主任研究員になっています。
同時代の物理と化学のそれぞれ第一人者と言ってよい二人でしょうが、寺田寅彦は自然科学の分野に収まらない教養人で、あの厖大な随筆を残しながらも物理の「教科書」は書かなかったのに対して、片山正夫はすでに1915年に名著『化学本論』を刊行して、1929年の第10版まで改訂を重ねていきました。
お互いに相手をどういう風に見ていたのでしょうね。
本年もよろしくお願いします。