文応元年の日蓮と親鸞

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 正嘉元年(1257年)8月23日、鎌倉は大きな震災に見舞われました。いわゆる「正嘉の大地震」です。『吾妻鏡』には、次のように記されています。

八月二十三日 戌の刻大地震。音有り。神社仏閣一宇として全きこと無し。山岳頽崩し、人屋顛倒す。築地皆悉く破損し、所々の地裂け水湧き出る。中下馬橋の辺地裂け破れ、その中より火炎燃え出る。色青しと。

 時の政治の中心地・鎌倉では、神社仏閣・人家・築地が倒壊し、地割れが生じて水や炎まで吹き出るなど、甚大な被害があった様子がうかがえます。
 この時、鎌倉で布教していた日蓮も、地震に遭いました。そして、その危機感から文応元年(1260年)に『立正安国論』を著して、執権の北条時頼に提出したのです。下記は、日蓮が文永5年(1268年)に再度『立正安国論』を幕府に提出した時に添えた「安国論副状」の一部ですが、この論が、正嘉の大地震を契機に書かれたことが記されています。

 抑正嘉元年〈太歳丁巳〉八月二十三日戌亥の刻の大地震、日蓮諸経を引いて之を勘ふるに、念仏宗と禅宗等と御帰依有るの故に、日本国中の守護の諸大善神恚りに依って起こす所の災ひなり。
 若し御対治無くんば、他国の為に此の国を破らるべき悪瑞の由、勘文一通之を撰して、立正安国論と号し、正元二年〈太歳庚申〉七月十六日宿屋入道に付けて、故最明寺入道殿に之を進覧せしむ。

 日蓮は、これらの災厄の原因は為政者が念仏や禅などをの「邪宗」を信じていることにあると断じ、法華経に帰依すること(立正)を求めたのです。
 このような大胆な「国家諫暁」は、他宗からの迫害や幕府からの弾圧も招き、襲われた日蓮は命を落としそうな目に遭い、さらに翌年に伊豆国へ流罪となりました。
 『立正安国論』の内容評価はともかく、震災に際して日蓮は、我が身も危険にさらすような積極的な行動に出たのです。

 一方、日蓮が『立正安国論』を著したとちょうど同じ文応元年、日蓮より50歳年上の親鸞は、常陸国の門弟・乗信房にあてて、書簡を出しています。下記はその冒頭部分です(『末燈鈔』)。

 なによりも、こぞことし、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことはり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候。

 「老少男女おほくのひとびとの死にあひて候ふ」事態は、この頃に各地を襲った飢饉でもあり、またおそらく3年前の「正嘉の大地震」の被害も含んでいるのでしょう。
 親鸞はこれらを嘆き悲しみながらも、「おどろきおぼしめすべからず」と諭し、冷静に受けとめるよう説いています。このような災厄の原因は何かとか、どのように対処すべきかということは論じず、それは「生死無常のことはり」であると言っています。

◇          ◇

 ・・・というのは、賢治とは直接関係のないお話でした。ただ、先日発行された『宮沢賢治学会イーハトーブセンター会報 第43号』に、「イーハトーブ<災害>学」というタイトルで掲載していただいた文章の最後に、もったいぶったように「日蓮と親鸞」云々と書いたことへの、補足的覚え書きのようなものです。
 この依頼原稿そのものの内容は、以前にこのブログでも「災害と賢治」として書いたことの一部要約のようなものですが、そこに記した「賢治の二つの側面」を調べていた時に、日蓮と親鸞がちょうど同じ年に、同じ状況を前にして見せた態度の対照性について、興味深く思ったのでした。

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