下記は、『春と修羅』所収の作品「風の偏倚」の冒頭部分です。
風の偏倚
風が偏倚して過ぎたあとでは
クレオソートを塗つたばかりの電柱や
逞しくも起伏する暗黒山稜や
(虚空は古めかしい月汞にみち)
研ぎ澄まされた天河石天盤の半月
すべてこんなに錯綜した雲やそらの景観が
すきとほつて巨大な過去になる
五日の月はさらに小さく副生し
意識のやうに移つて行くちぎれた蛋白彩の雲
月の尖端をかすめて過ぎれば
そのまん中の厚いところは黒いのです
(風と嘆息との中にあらゆる世界の因子がある)
〔後略〕
この引用した最後の行にある、「風と嘆息との中にあらゆる世界の因子がある」とは、何と不思議で魅力的な言葉でしょうか。
読む人は、この言葉にそれぞれの意味とその余韻を見出すことができるでしょう。皆さまは、どのようなことを感じられるでしょうか。
このような言葉にここで何かコメントを加えるなどとは、僭越で無粋なこととは思いますが、今日は個人的に次のような事柄を連想したりしていました。
◇ ◇
「風」も「嘆息」も、「空気の移動」という現象であることは同じです。ただ、その空気の組成を調べると、おそらく後者の方が前者よりも水蒸気と二酸化炭素の比率がやや高く、酸素の比率がやや低いくらいの違いでしょう。
客観的な組成としては上のようにほぼ同じ「空気の移動」でも、人間にとっての意味は、かなり異なります。
「風」は、「自然的・物理的」な現象であるのに対して、「嘆息」は、「人間的・心理的」な現象です。 前者は、気温差や大循環などによってできる気圧傾度力によって生み出されます。後者は、人間の感動や、悲哀や、さまざまな心の動きによって生み出されます。
賢治は、世界における自然的な現象を「風」によって象徴させ、世界における人間的な現象を、「嘆息」によって象徴させようとしたのでしょうか。
「世界」を、人間とそれ以外の自然に分けるとすると、「風と嘆息と」を併せれば、世界のあらゆる因子をカバーできるということかもしれません。
一方、ギリシャ語においては、πνευμα(pneuma:プネウマ) という語は、もともと「風」と「息」の両方を意味する言葉だそうです。「風と嘆息と」を包含する言葉なのですね。これがラテン語に入って spiritus になると、「霊」「魂」などもっと精神的な意味あいになります。
◇ ◇
さて話は変わりますが、「移動」というのは四次元的な現象です。「風」や「嘆息」においては、「風向」という属性は三次元空間におけるベクトルとして表現できますが、「風速」という属性を表現するためには、「時間」という四番目の次元がどうしても必要となります(移動距離を時間で割る)。
たとえば、クルミの化石でも、巨きな蟹の甲らでも、火山弾でも、上等の蛋白石でも、これらは採集してきて標本にすることはできますが、つむじ風なりそよ風なり、「風」を袋か何かに詰めて標本にすることはできません。時間軸における移動までも、袋の中に閉じ込めておくことはできないからです。
つまり、「風」という現象はその本質において、賢治が考えたようなこの「世界」の四次元性を内包しているのです。
その意味でも、「風と嘆息との中にあらゆる世界の因子がある」ということになるのかも知れません。
ちなみに「風」は、インドや中国においては、地・水・火・風という「四大」=世界を構成する四大元素の一つと考えられ、また四大に「空」を加えた五つの元素は、「五大」と呼ばれます。五大のそれぞれを象徴する形を下から積み上げたものが、「五輪塔」ですね。
四大または五大において、「風」は、「成長・拡大・自由」を表すということです。
◇ ◇
この「風の偏倚」という作品は、「風」の諸相が主題となっています。また賢治は「風の又三郎」を書きましたが、「風」を主人公とした童話なんて、世界でもあまりないのではないでしょうか。
一方、「〔風がおもてで呼んでゐる〕」において病床の賢治は、「おれたちのなかのひとりと約束通り結婚しろ」と、風に呼び出されそうになります。彼は風を愛するあまり、結婚の約束までしていたのでしょうか。
「風の鳴る林」(花巻駅前)
耕生
耕生です。
「風と嘆息との中にあらゆる世界の因子がある」
これは本当にためいきがでるほど素敵な言葉ですね。
いつもながら、hamagakiさんの着眼点には敬服させられます。
今まであまり注目されてこなかった詩ですが、こうしてみると、「春と修羅」の中の「風景とオルゴール」詩群には実に重要な詩が幾つも含まれていることになります。
石川・宮沢賢治を読む会では現在進行形で「春と修羅」に取り組んでいます。いざ読み出してみると結構、疑問点が噴出し、なかなか予定通り進みませんが、少しずつ着実に解釈が深まっています。hamagakiさんの解説はとても役立っており、今後の展開がますます楽しみになってきました。
さて、次の興味深いご指摘についてコメントさせていただきます。
>一方、ギリシャ語においては、πνευμα
>(pneuma:>プネウマ) という語は、もともと
>「風」と「息」の両方を意味する言葉だそうで
>す。「風と嘆息と」を包>含する言葉なのです
>ね。これがラテン語に入って Spiritus になる
>と、「霊」「魂」などもっと精神的な意味あい
>になります。
前置きが少し長くなりますが、以前にご紹介したケセン語(岩手県気仙郡の方言)研究で有名な山浦玄嗣氏の著書に「ケセン語訳新約聖書 マタイ伝」(イー・ピー出版、2002年、先年、ローマ法王にも献上)があります。このマタイ伝の中にイエス・キリストの有名な山上の垂訓があります。
「こころ貧しき者は幸いである」という有名な最初の言葉が、長い間、私にはどうしても理解できませんでした。普通は「貧しくても心豊かな者は幸いである」のはずです。なぜイエスは「心貧しき者は幸いである」などと言ったのか?この日本語は本当に正しい訳なのだろうかという疑問が離れませんでした。しかし、この部分は英語訳でもpoor in spiritであり、霊において貧しい=心貧しいという表現になっています。
この冒頭の言葉はケセン語訳は次のようになっています。
「頼りなぐ、望みなぐ、心細い人ァ幸(すあわせ)せだ」(標準語訳:頼りなく、望みなく、心細い人は幸せだ)
これは素直に理解できます。この文章の解説の中で、山浦氏は次のように述べています。
山上の垂訓のこの文章はギリシャ語では「ホイ・プトーホイ・トーイ・プネウマティー」であり、直訳すると「鼻息の弱い人は幸いである」という意味だ。
つまり、ギリシャ語のプネウマティーはもともと「鼻息」を意味する言葉であり、後に「霊」という意味に転じたというのです。
ご承知のとおり、新約聖書の言語は古代ギリシャ語ですから、もともとの意味で解釈すると、無理なく解釈できるというわけです。
ちなみに、この山上の垂訓の冒頭の箇所は翻訳者泣かせのようで、塚本虎二訳の岩波文庫「福音書」では、「ああ、幸いだ、神に寄りすがる“貧しい人たち”」というわかりやすい訳になっています。
また、最近の英語訳(Good News Bible)でも、「神に寄りすがる貧しい人は幸いである」(今、手元に資料がないので残念ながら正確な文章がわかりません)というような訳になっています。
要するに、山上の垂訓は屁理屈をこねなくてもよくわかる内容だったというわけです。現代のキリスト教世界で「心貧しき者」という訳に決定しているのは、教義上の何か深い意味(宗旨普及や教会運営上の理由)があるのかもしれません。ご存じの方がおられたらぜひご教示下さい。
あのロシアの文豪トルストイも、山上の垂訓の冒頭の言葉には多いにとまどったようで、最終的には「これは金持ちでも天国に行けることを肯定するために意図的に改訳した」と強引に断定しています。もちろん、この解釈はキリスト教会側の同意は得られていないと思います。ちなみに、同じ福音書のルカ伝では単に「貧しき者は幸いである」となっています。
ここで、hamagakiさんの言葉を再引用します。
>ギリシャ語においては、πνευμα(pneuma:
>プネ>ウマ という語は、もともと「風」と「息」
>の両方を意味する言葉だそうです。
>「風と嘆息と」を包含する言葉なのですね。
>これがラテン語に入ってSpiritus になると、
>「霊」「魂」などもっと精神的な意味あいに
>なります。
宮沢賢治という人は宗教者として、イエス・キリストと同じような感覚を持っていたのかもしれません(ほめ殺しかも?)
<追伸>
ついでながら、ヨハネ伝の最初の言葉、「はじめに言葉ありき」も昔から何のことか、さっぱりわけがわからなかったのですが、「ケセン語訳新約聖書ヨハネ伝」では実に明快な訳になっており、私は初めてこの極めて重要な章句の意味を理解することができました。関心をお持ちの方はぜひ、「ケセン語訳新約聖書ヨハネ伝」を読んでみて下さい。ヒントは「言葉」に相当するギリシャ語は「ロゴス」だということです。これを従来の日本語訳、英語訳は「言葉」、「Word」と訳してきたわけです。
「言葉」とは、人間どうしがお互いのコミュニケーションをとるために発明した文化なのだから、宇宙創生の前に「言葉」があるのは矛盾しているというのが山浦氏の見解です。私も氏の見解に100%賛成です。このLogosを氏がケセン語で何と訳しているかは見てのお楽しみです。「あっ」と驚き、そして「なるほど」と納得させられます。まさに名訳です。
hamagaki
耕生様、コメントをありがとうございました。お返事が遅くなってしまってすみません。
私はキリスト教のことはよく知らないのですが、「心貧しい人」というのは、何となく「謙虚な人」くらいにばくぜんと思っていました。
今回教えていただいた「頼りなぐ、望みなぐ、心細い人」というケセン語訳は、関西地方の言葉ばかりに親しんできた私にも、まさに腑に落ちる感じがします。ここの箇所が、しっかりと理解できたような気になりました。
それにしても、山浦玄嗣という人の言語的センスは驚くべきものですね。
今も存命中の医師としては、中井久夫という人の研ぎ澄まされた言語感覚が思い浮かびます。また全く違った方向性ですが。