ごまかしのない国体の意義

 「「短篇梗概」等」として分類されている賢治の作品に、「大礼服の例外的効果」というのがあります。盛岡高等農林学校を思わせる学校の、何かの式典のような舞台設定のもとに、「校長」と、旗手「富沢」との間の、微妙な心理の綾が描かれているものです。
 ここに登場する旗手「富沢」とは、現実に盛岡高等農林学校在籍中に旗手を務めた、「宮沢」賢治自身が一つのモデルになっているのでしょう。作品では、若々しい自由な精神と、古い「体制的」な精神との間の、危うい葛藤が描かれ、そしてそのような対立を超越したところに見え隠れする、普遍的な「美」というものが暗示されています。短い素描的な形式をとりながら、独特の魅力をたたえた作品です。

 その中に、下記のような一節があります。

校長はちょっとうなづいてだまって室の隅に書記が出して立てて置いた校旗を指した。
富沢はそれをとって手で房をさばいた。校長はまだぢっと富沢を見てゐた。富沢がいきなり眼をあげて校長を見た。校長はきまり悪さうにちょっとうつむいて眼をそらしながら自分の手袋をかけはじめた。その手はぶるぶるふるえた。校長さんが仰るやうでないもっとごまかしのない国体の意義を知りたいのです と前の徳育会でその富沢が云ったことをまた校長は思ひ出した。それも富沢が何かしっかりしたさういふことの研究でもしてゐてじぶんの考へに引き込むためにさう云ってゐるのか全く本音で云ってゐるのか、或は早くもあの恐ろしい海外の思想に染みてゐたのかどれかもわからなかった。卒業の証書も生活の保証も命さへも要らないと云ってゐるこの若者の何と美しくしかも扱ひにくいことよ 扉がまたことことと鳴った。

 「富沢」が放つ強い自意識は、現実には穏和な優等生であった賢治自身の態度よりも、退学になった保阪嘉内のそれを、連想させるものです。その一方で、嘉内の退学を知った賢治がとった行動には、この作品と通底するような、「学校の権威などものともしない」雰囲気もありました。下記は、妹シゲによる回想です(保阪庸夫「賢治と父」:川原仁左エ門編著『宮沢賢治とその周辺』所収)。

或る日突然帰宅した兄がただならぬ気色で学校を止めると言ひ張つて父をはじめ私達を驚かせました。お友達一人丈けを退学にさせておけないといふ事で今先生方全部の会合の中で何かを宣言して来た様子でした。その教授会?の席上で校長先生が「ほんとうの幸せとは何か、宮沢君からそれを聞こうじやないか」と言われたと云ふのが耳に残つて居ります。

 ここで、教員の会合に乗り込んだ賢治が、「ほんとうの幸せ」というようなことを持ち出して議論するのは、後年の作品にも続くいかにも「賢治らしい」思想として、至極納得のいくことです。しかし、「大礼服の例外的効果」における「富沢」が、「校長さんが仰るやうでないもっとごまかしのない国体」というものを問題にしているところは、賢治の作品としてはちょっと異色の光を放っています。
 「国体」などというものについて、生前の賢治が「さういふことの研究」をしていた形跡はありませんし、ましてや賢治の他の作品にも、登場することはありません。
 いったいなぜここで、「国体」が持ち出されたのでしょうか。その背景は、何だったのでしょうか。

 まず前述のように、賢治の親友である保阪嘉内が、1918年(大正7年)3月に退学処分を受けたこと、それに対して賢治が強く反発し、校長を含む教員と論争を行ったらしいことは、作品の背景として重要なことでしょう。
 そしてもう一つ、この前年に起こっていた「『国柱新聞』発禁事件」という出来事も、作品に登場する「国体」との関連において、注目すべきことではないかと、私は考えます。

 1917年(大正6年)7月、国柱会の機関誌『国柱新聞』182号は、「安寧秩序を乱す」との理由で、内務省から発売禁止の処分を受けました。
 処分の対象となったのは、この号に掲載されていた「公園伝道」という短篇小説で、主人公が上野公園を通りかかった時に聞いた演説の中で、弁士が述べた次のような一節が、問題とされました。

たゞ皇統連綿、万世一系といふ丈けで尊貴といふのならば、それは無内容の国体である。

上野公園における国柱会の街頭演説(大正10年) 弁士は、これに続いて「真理的に無限の価値を有して居ない国体論などは、理智の発達した現代人には何の尊敬が起らう。」と、「一知半解の愛国者の国体論」を否定した上で、「日蓮聖人の国体観はそんな無内容なものではない。仏教の根本教理を以て日本国体の内容を開顕された大宗教大哲学としての日本国体である。」として、国柱会の「日蓮主義」の観点からの国体観を述べます。
 全体を通して読むと、この弁士は毫も「国体」という観念を否定しているわけではなく、ただその日蓮主義的な意義を強調しようとしたのだと言えますが、「無内容の国体」などという言葉尻がとらえられて、「安寧秩序を乱す」と判断されたのでしょう。
 しかし実は、これに似た言葉はすでに1913年(大正2年)に、田中智学自身が述べていたのです(「国体の権化明治天皇」:『獅子王文庫』所収)。

 日本のえらいのは、皇統連綿万世一系と直に云ふが、皇統連綿万世一系はえらいものではない。皇統連綿万世一系であるから日本はえらいのではない。日本はえらいから皇統連綿万世一系なのである。

 上記の短篇小説中の弁士の言葉は、この田中智学の言葉を敷衍したにすぎなかったわけですが、以前には問題にされなかったことが、この時には内務省の検閲に引っかかってしまったのです。
 この発売禁止処分に対して、当然ながら国柱会は強く反論し、次の183号の「遺憾千万/国家の不幸!」と題した巻頭言では、「我党の言論が国体を危ふくし秩序を紊すものと解せられたるは実に破天荒の珍事」と訴え、184号の巻頭言「国体発揚の時来れり」においては田中智学が直々に、「事の真相を叙べ、これに対する予の所感を開陳して、一は内務省大臣以下当局の管理に質し、一は因て以て世人に吾が国体の何たるかを開示せんとす」と述べ、「日本国体の真意義」という論文を掲載しました。
 国柱会は、処分の撤回を求めて内務省と交渉を重ねたようですが、結局撤回はなされませんでした。「主義、目的はよくても、用語がいけない」との理由だったそうです。しかし、発売禁止になったのは182号一号だけで、183号からはまた通常どおり認可されています。(「『国柱新聞』発禁事件」の経過に関しては、多くを大谷栄一著『近代日本の日蓮主義運動』によった)

 というような一連の経過があったわけですが、賢治はこの時点ではまだ国柱会の会員ではなかったとは言え、ほかならぬ保阪嘉内の影響によって、田中智学や国柱会の活動については、すでに常々かなりの注目をしていたはずです。「『国柱新聞』発禁事件」の経緯についてもきっと知っていただろうと思いますし、そこで問題になっていたのが、「国体」の意義についてであったことも、理解していたでしょう。
 そこで、「大礼服の例外的効果」という短篇の梗概を書く際に、保阪嘉内退学への思いに加え、富沢に「校長さんが仰るやうでないもっとごまかしのない国体の意義を知りたいのです」という発言をさせたのではないかと、私は思うのです。嘉内退学と『国柱新聞』発禁とは、1年と間をおかない同時代の出来事だったのです。
 思えば、保阪嘉内の処分の直接的原因となったという、「おい今だ、今だ、帝室をくつがえすの時は」という言葉も、結局は日本の「国体」に関わるものでした。

 時代背景を見てみると、1917年(大正6年)から1918年(大正7年)という時期は、第一次大戦の好況に社会の一部は潤いながらも、米をはじめとした物価は高騰を続け、米騒動(1918年)、小作争議、労働争議など、社会全体が大きな動揺をしていた時でした。さらに1917年のロシア革命も、思想的に大きな衝撃をもって受けとめられていました。
 政府は、このような不穏な空気を抑えるためにイデオロギー的統制を強め、1917年(大正6年)9月には内閣直属の「臨時教育会議」が設置されて、そこでは「大戦による思想上の変動に対して国民道徳を徹底させ、国体観念を強固にするという国家主義的な方針」が審議されました。実際の教育現場では、「敬神崇祖、思想善導の諸政策」として、大正天皇の御真影の下賜、祝日大祭日行事、皇室の歓送迎行事、神社参拝などが実施されたということです(『近代日本の日蓮主義運動』より)。

 というわけで、『国柱新聞』のような、本来は国家主義的なメディアまでもが発売禁止処分を受けたのは、上記のような厳しい思想統制の流れのもとで起こった現象だったのです。
 そして現在から眺めれば、1918年の保阪嘉内の、単なる「若気の至り」と言うべき筆のすべりまでもが、理不尽に重大な「退学」という結果を招いたのも、このような時代のなせるわざだったのかと、思われるのです。

旧盛岡高等農林学校校長室と校旗
旧盛岡高等農林学校校長室と校旗