暁烏敏『わが歎異鈔』から

 真宗大谷派の僧、暁烏敏(あけがらす・はや)は、明治から昭和にかけて浄土真宗宗門の改革に活躍し、また『歎異鈔』研究でも知られる宗教家ですが、宮澤政次郎氏との交流が深く、一時はしばしば花巻を訪れていました。

 その交流は、1906年(明治39年)7月に暁烏敏が花巻を訪れ、政次郎氏らに出迎えられたことに始まります。彼はまず7月14日~18日に、宮澤家からもほど近い光徳寺において『歎異鈔』を中心とした講話を行い、連日「百余」の来会者を集めたということです。
 さらに8月1日から10日までは、大沢温泉における「夏期仏教講習会」の講師として講話をするとともに、その合間には宮澤家一族の子どもたちと一緒に、「小児となりて遊ぶ」(『暁烏敏日記』より)ひとときも持ったのです。そこにはもちろん、当時9歳の少年賢治もいました。
 この後、賢治在世中に暁烏が花巻を訪れた記録は9回もあり(1909年10月、1913年5月、1917年5月、1920年7月、1924年7月、1926年7月、1927年9月、1930年7月、1932年9月)、その多くは宮澤家に宿泊したということです。(上記資料は主に、栗原敦著『宮沢賢治 透明な軌道の上から』による。)

 このような交流の深さと、幼い頃からの賢治の宗教性を考えると、なかでも16歳の頃の父あて書簡[6]で「歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」とまで書いた賢治の信仰を思うと、身近に接した暁烏敏の宗教的な言葉が、賢治に何らかの影響を与えていた可能性は、否定できないでしょう。
 ちなみに、盛岡高等農林学校在学中の1918年に『アザリア』に発表した「復活の前」と題された断章にも、「暁烏さんが云ひました」という一節がありました。


 そのような暁烏敏の著書『わが歎異鈔』の中に、次にような文章を見つけて、私はちょっと興味を引かれました。これは、『歎異鈔』における親鸞の「地獄は一定すみかぞかし」という言葉について、説明しているところです。

 地獄といえば、鬼の世界です。鬼にせめられる罪人は、やがて鬼なんだ。罪人であり鬼である。鬼は、罪人である自分の胸から出たものです。鬼は、ほかにあるのではなしに、罪人の胸から現れたものです。自分が地獄におるということは、自分が鬼をこしらえておるのです。その自覚です。自分が鬼をこしらえておるんだということがはっきり味わわれるときに、たすかります。(中略) 「地獄は一定すみかぞかし」と、すなおに自分の目星のわかった人は、鬼はわしが作っておるんだ、この邪見驕慢の心から地獄がうまれておるんだ。これによって自ら苦しんでおるんじゃ、とほんとうに自分のあさましさが自覚できるのです(『わが歎異鈔(上)』p.162-163,強調は引用者)。

 つまりここで暁烏敏は、「鬼」とか「地獄」というのは、自分の心がつくりあげた仮象である、ということを言っているわけですが、思えば賢治も、これと似たような物の言い方をよくします。

 例えば、1918年の工藤又治あて書簡[54]では、土性調査の山歩きの状況について、次にように書いています。

猿ノ足痕ヤ熊ノ足痕ニモ度々御目ニカカリマス。実ハ私モピストルガホシイトモ思ヒマシタ。ケレドモ熊トテモ私ガ創ッタノデスカラソンナニ意地悪ク骨マデ喰フ様ナコトハシマスマイ。(強調は引用者)

 すなわち賢治はここで、「鬼」のかわりに「熊」のことを、「私ガ創ッタ」と言っているのです。
 また、『アザリア』第六号(1918年)に発表された「〔峯や谷は〕」という断章では、険しい峯や谷を描写した後、

この峯や谷は実にわたしが刻んだのです。そのけはしい処にはわが獣のかなしみが凝って出来た雲が流れその谷底には茨や様々の灌木が暗くも被さりました。

と述べて、風景として見える「峯」や「谷」も、「わたしが刻んだ」と言います。
 あるいは、1918年の父親あて書簡[46]では、

戦争とか病気とか学校も家も山も雪もみな均しき一心の現象に御座候

と書いたり、同年の保阪嘉内あて書簡[49]では、

退学も戦死もなんだ みんな自分の中の現象ではないか 保阪嘉内もシベリヤもみんな自分ではないか

と書いています。
 戦争や戦死やシベリヤが出てくるのは、徴兵検査を受けるかどうかについて、この頃賢治と父親が対立していたためで、嘉内あて書簡に出てくる「退学」は、その直前に嘉内が盛岡高等農林学校を退学処分になったことを指します。退学になった親友を慰めるつもりで書き始めたはずの手紙なのですが、引用部分に至ってはあまりに極端な考えに走り、嘉内にとっては慰めにも何もなっていないのではないかと危惧される、皮肉な箇所です。

 さてこのように、様々な苦難へのスタンスとして、「鬼はわしが作っておるんだ」という風に唯心論的にとらえるというのが、暁烏敏の歎異鈔解釈と、上のような賢治の考え方とに、共通しているところです。
 もちろん、仏教一般の世界観の根本には、「すべての存在は心的仮象にすぎない」という認識がありますから、賢治が上のように書いていることを、すべて暁烏敏からの影響だけに帰することはできないでしょう。しかし、全仏教の中で最も賢治に影響を与えたはずの日蓮を見てみると、実践的で現実主義的な日蓮の世界観においては、「この世が仮象である」ということは、あまり強調されないのです。
 むしろこのような考え方は、現世を否定し、浄土への往生を願う、浄土教的な思想との親和が強く、すでに当時の賢治が傾倒していた日蓮の考えとは、若干の違和があるように、私には感じられるのです。

 すなわちここには、幼少から親しんだ浄土真宗から離れ、法華経および日蓮を「全信仰と」した後の賢治にも、基層として伏在していた考え方が顕れているのではないか、とりわけ、暁烏敏の言葉の影響が顔を出しているのではないかと、私は思うのです。
 そしてこの世界観が、後年の「心象スケッチ」という、彼独自の壮大な企図にもつながっていくことを考えると、それは昔の信仰の残滓などとして片付けられるものではなく、賢治を理解する上で、重要な一側面であるように、私には思われるのです。

1906年8月「第八回仏教講習会(於大沢温泉)
大沢温泉における「夏期仏教講習会(1906年8月)」の一コマ。
後列中央の法衣姿が、暁烏敏。他に並んでいるのは宮澤家親類縁者一同で、後列左から二人目が宮澤政次郎、前列左から二人目が賢治、二列目右端がトシ。