出町と出町柳

 また京都の話ですが・・・。

 1921年(大正10年)4月の父子の関西旅行に関して、佐藤隆房著『宮沢賢治』も、政次郎氏から直接聴き取ったと思われる独自の情報をもたらしてくれる貴重な資料の一つです。
 その中で、比叡山からの下山と京都での行程について、次のような記載があります。(佐藤隆房『宮沢賢治』p.67)

 帰途は裏に回って白河路を行くこととなりました。この道も京の方から来た巡礼姿の巡拝の女人に会ったほかは、誰にも会わず、淋しい道でした。山を下る頃、すでに黄昏になりました。

暮れそめぬふりさけみればみねちかき
講堂あたりまたたく灯あり

 水音のみの真っ暗い大原の町を過ぎ、京の出町柳から市電に乗って疲れた身体を三条小橋の布袋屋に投じました。

 ここで、下から2行目に「大原の町を過ぎ」とありますが、大原は比叡山よりもはるか北にありますから、下山して京都市街を目ざしている途中に通過することはありえず、どこか他の町の間違いと思われます。
 それから、それに続いて「京の出町柳から市電に乗って」とありますが、これも「出町柳」ではなくて、「出町」の誤りと考えられるのです。

 「出町柳」というのは「市電」ではなく「叡山電鉄」の駅で、1925年(大正14年)に、出町柳-八瀬(現在の八瀬比叡山口)間を結んで開業しました。「出町柳」という駅名は、鴨川をはさんで対岸の「出町」と、この駅のあった「柳町」を合わせて、当時新たに作られた名称でした。
 父子が旅行した時点では開業していない上に、電車は出町柳から北へ向かうので、方向も逆です。

 これに対して、上にも出てきた「出町」というのは、市電のターミナル駅で、1901年(明治34年)に開通した「出町線」が「寺町丸太町」までを結んでいました。
 そもそもこの出町という場所は、「京の七口」のうち、北西に向かう「大原口」があったところで、昔の人にとっては、京から比叡山方面へ向かう出発点だったのです。

 賢治父子が「出町から市電に乗っ」たというのは、具体的には、上記のようにまず「出町線」で寺町丸太町まで来て、ここから「中立売線」(1895年開通)で寺町丸太町→木屋町二条へ、さらに「木屋町線」(1895年開通)で木屋町二条→木屋町三条、と乗り継げば、三条小橋のたもとまで電車で来ることができます。
 というわけで、この箇所は、「京の出町から市電に乗って・・・」だったと考えられるのです。

 ちなみに下の図は、1913年(大正2年)に刊行された、「比叡山延暦寺案内全図」という絵地図の一部です。下に、「京都出町」からの里程が表にされていて、やはり出町が京都側の比叡登山の拠点と考えられていたことがわかります。
 賢治父子は、無動寺谷の「大乗院」にも寄ったと言われていますから、ここから出町までは、「二里廿一丁」=10kmあまりですね。

比叡山延暦寺案内全図