花巻銀行の x、y

 賢治の遺した草稿群の中に、「作品断章・創作メモ」と呼ばれている一群があり、『【新】校本全集』では第十三巻(下)に収められています。
 すでによく知られている童話の構想に関するメモなどとともに、未来の作品の萌芽として、「喜劇 夜水引キ」とか、「黒溝台」とか、「象徴的ファンタジー 革命」とか、「禁治産 一幕」とか、演劇の台本の素案のようなものも数多く含まれていて、もしもこれらが完成していたらどんな作品になったのだろうと、メモを読むだけでも楽しいような残念なような気がしてきます。

 そのような「創作メモ」の一つに、創48「花巻銀行」と題されたものがあり、残されている内容は、以下のようなごく簡単な骨組みです。

花巻銀行   四幕

第一幕
       支配人梅津友三私宅
第二幕
       花巻銀行営業所
第三幕
       花巻銀行二階
第四幕
       支配人梅津友三私宅

 これだけでは、この四幕劇がどんな内容になる予定だったのかはなかなかわかりませんが、奥田弘氏は『宮沢賢治 研究資料探索』(蒼丘書林)p.185において、次のように推測しておられます。

 まず「花巻銀行」がある。沿革によれば、花巻銀行は明治31年4月創立され、昭和4年に、盛岡銀行に併合されている。これは第一次世界大戦後の金融界恐慌に対し、銀行整備合同の政策によって行われたものである。このメモ「花巻銀行」は、この時の事情をふまえていることが推定される。

 すなわち奥田氏は、賢治の創作メモ「花巻銀行」は、昭和4年の金融界恐慌の際に花巻銀行が盛岡銀行に併合されてしまったことを踏まえたものと推定しておられるわけですが、私はこれに対して、この劇は大正4年の花巻銀行休業騒動を題材しているのではないかと考えます。

 たしかに花巻銀行にとっては、金田一國士の率いる盛岡銀行に吸収合併されたことは大きな出来事だったでしょうが、しかしこれは上にもあるように、当時の大蔵省が「一県一行主義」を掲げて金融機関の整理策をとっていた、全国的な流れに乗ったものでした。また、すでに大正10年には、花巻温泉の経営権も含めて「花巻電気株式会社」が金田一の「盛岡電気工業株式会社」に吸収され、岩手軽便鉄道の社長も金田一國士であったわけですから、この時までに花巻の金融界は、実質的に金田一グループの傘下に入っていたと言わざるをえません。つまりこの合併は、花巻の財界にとっては、突発的な「事件」というよりも、やむをえない「既定路線」だったと言えるのではないかと思うのです。
 それよりも、賢治にとってより鮮明に、花巻銀行の「事件」として記憶に刻まれていたと思われるのは、1915年(大正4年)に起こった、「銀行休業」の騒動です。

 賢治の書簡では、同年8月の高橋秀松宛て[書簡9]において、この出来事について次のように触れています。

(前略)私の町は汚い町であります。私の家も亦その中の一分子でありますから尤もなことになります
十一日に早速盛岡からの蔬菜の種を蒔きました。今朝もう芽が出てゐます。村の人たちはまるきり町へ出てきませぬ 町の人たちも又充分しほれてゐます 殊に Hanamaki Bank に x、y と云ふやうな問題が起つて私の周囲は反対のしほれかた即ち眼が充血してゐます

 さらに、晩年になってから、盛岡銀行が破綻して金田一財閥が崩壊した際には、次のように回想しています(森佐一宛て1933年[書簡467])。

(前略)昨夜叔父が来て今日金田一さんの予審の証人に喚ばれたとのことで、何かに談して行きました。花巻では大正五年にちやうど今度の小さいやうなものがあり、すっかり同じ情景をこれで二度見ます。(後略)

 上の文中で「大正五年」とあるのは、実際には「大正四年」とすべきところ、賢治の記憶違いでしょう。やはり、花巻銀行の休業事件のことを指していると思われます。

 花巻銀行は、1913年(大正2年)上半期には払込資本金14万円に対して積立金6万8500円を持ち、純益金1万4467円を上げきわめて好調であったのに、わずか2年後の1915年上半期には、「整理案発表ノ結果、爾来連日預金之取付ニ遇ヒ、支払高多額ニ上リ、到底此ノ儘営業ヲ継続スルコト至難ニ因リ、整理中一時休業」(『岩手殖産銀行二十五年史』)という状態に追い込まれてしまいます。
 8月4日から始まった休業は、当初は9月2日までの予定でしたが、経営再建の目途がなかなか立たず、再開は4回にわたって延期され、ようやく年末の12月27日に、開業にこぎ着けました。
 短期間にここまで経営が悪化した要因は、鶯沢硫黄鉱山への莫大な滞り貸しの発生、それから行員による巨額の使い込み等が重なって、ついに運転資金に窮した結果、大勢の預金者から取り付けを受けて、返済不能に陥ったということです。
 つまり、賢治の言う「Hanamaki Bank の x、y と云ふやうな問題」とは、「鶯沢鉱山の不良債権」と「行員の使い込み」という、二つの問題を指していたのかと推測されるわけです。

 この休業期間中に、とりわけ賢治の母方の親族は、銀行の経営中枢を担っていましたから、必死に奔走するあまり「眼が充血」したというのも、あながち賢治の誇張ではないでしょう。『岩手殖産銀行二十五年史』という本には、次のような描写があります。

これを整理するに当って新たに副支配人になった宮沢恒治は、盛岡銀行常務取締役太田惣六に整理方法について相談し、銀行の内容を話したところが太田は「日本広しといへども、こんな腐った銀行はありますまい。」といって受け付けず、整理案も作ってくれなかった。宮沢副支配人もやむなく、専務取締役宮沢善治、実兄の直治と相談して整理案を作りふたたび太田に相談したところ、「これならばやって見てもいいでしょう。」といったという。その内容案は、資本金20万円を5分の1の4万円に減資して不良資産を整理し、預金は三ヵ年据え置き、無利子五ヵ年賦償還とし、重役は10万円の私財を提供するという案で、いかに経営が悪化していたかが推定できよう。宮澤善治

 上記で、宮沢善治は賢治の祖父(母イチの父=右写真)、直治と恒治はイチの弟、すなわち賢治の叔父たちにあたります。直治は当時36歳、また「新たに副支配人になった」恒治は賢治の10歳年上で、まだ29歳でした。それにしても、「腐った銀行」とまで侮辱された宮沢恒治氏の悔しさは、いかばかりだったでしょうか。

 さて、この「整理案」にある「重役の私財提供」の内訳が、やはり『岩手殖産銀行二十五年史』に掲載されていました(下記)。

花巻銀行整理案(重役の私財提供)

 この時、宮沢善治氏らが拠出した「2万5000円」というのは、現在の貨幣価値にすれば、少なくとも1~2億円はあるのではないかと思われます。
 それはさておき、ここで興味深いのは、当時の「支配人」として、「梅津友蔵」という人の名前が見えることです。冒頭に引用した賢治の「花巻銀行」のメモでは、「支配人梅津友三」とあって、違いは最後の「蔵」と「三」だけです。このようなところからも、劇「花巻銀行」において賢治が題材にしようとしたのは、大正4年の「休業事件」のことだったのではないかと、私は思うのです。
 晩年の「疑獄元兇」という短篇に見られるように、現実にあった社会派的なテーマに取材し、追い詰められた「支配人」の心理を浮き彫りにするような作品を、構想しようとしたのかもしれません。