ミーハーな私は、先日横浜に行った際に、NHKの朝ドラ「どんど晴れ」のヒロインの彼氏が勤務しているらしいホテルに宿泊してみました。下写真のまん中あたり、帆船の「帆」をかたどったような白い半円形の建物がそれです。
ドラマでは、家出したヒロイン夏美はすでに盛岡の旅館で厳しい仲居の修行を始めているのに、婚約者の柾樹は、まだこのホテルで残務整理をしているところです。
そして下の写真は、水曜日の晩にホテルから見たの横浜港の夜景です。雨が降っていたので、風景はちょっと曇った感じで、左上の方に橋脚が光っているのは横浜ベイブリッジです。
それはさておき、横浜開港資料館で閲覧してきた「横浜植木株式会社」の「大正十五年度秋季臨時園芸要覧」の冒頭には、下写真のような「白菜」の種子も載っていました。
この年の10月に、賢治は「白菜畑」(「春と修羅 第三集」)を書いていますが、作品中に出てくる「芝罘白菜」も、「包頭連白菜」も、カタログに出てきます((2)と(4))。
そしてとりわけ興味深いのは、ここで「芝罘白菜」の説明として、「葉は稍緑色を帯び強健粗剛なり球の先端尖り砲弾状をなす球葉純白にして軟く甘味に富む」と書かれているところです。
作品「白菜畑」の中で賢治は、「千の芝罘白菜は/はぢけるまでの砲弾になり」と書いていて、この品種の形状をやはり同じく「砲弾」になぞらえているのです。
賢治が白菜の種子を「横浜植木」から買ったかどうかはわかりませんが、先日ご紹介した「横浜植木」からのメールのお返事に、「(賢治が)当社から野菜の種子をお買い求めになった納品書は残っているようですが…」という一節があったことは気になります。
現在でこそ、白菜の形を分類する際には、「円筒型(包被型)」「砲弾型(抱合型)」という用語が使われますが(野菜図鑑「はくさい」)、結球する白菜の種子が日本で採れるようになったのは、1916年(大正5年)の松島白菜が最初のことで(板倉聖宣『白菜のなぞ』)、大正末にはまだ一般には、白菜の「砲弾型」という呼称はなかったでしょう。
「横浜植木」のカタログなどと関係なく、賢治が独自に「砲弾」と形容した可能性も否定はできませんが、似た形の白菜の品種がたくさんある中で、とくに同じ「芝罘白菜」に対してこの言葉を用いている点は、注目すべきではないかと思います。
もしも賢治が「横浜植木」から買ったのなら、「白菜畑」に登場する白菜の種子は、時期的にはこの号を見て注文したことになります。
ちなみに、賢治と白菜については、最近「壺中の天地」でも考察をされています。
(追記: 「当時、花巻で白菜の種子が販売されていたかどうか」ということについては現時点では何とも言えず、とりあえずその部分は削除いたしました。)
佐香 厚子
カタログのこの手書き文字(フォント)がいいですね。
今日は 賢治啄木青春館に行って来ました。
賢治の詩に読み込まれている植物の写真展が開催されています。
オキナグサ、ハンノキ、美しかったです。
賢治が愛読した園芸の辞典3冊も 展示されておりました。
佐香 厚子
正確には 「もりおか啄木賢治青春館」です。
森佐一に当てた直筆の手紙が展示されておりました。
大正14年2月9日のこの手紙の文章は、昨年 子供が通院した
病院の待合室の片隅のボロボロの本で読み、深い感動を覚えた文章で、
まさか予期せず、その直筆と出会えるとは 。
奇遇に驚いた次第です。
hamagaki
佐香さま、コメントありがとうございます。
「もりおか啄木賢治青春館」は、私も昨年か一昨年に訪ねました。素敵な建物が印象的でした。
賢治の詩の植物の写真展が、今後の『北の国の花っこ』の企画のご参考になることをお祈りしています。
大正14年2月9日付けの書簡は、賢治から森佐一への初めての手紙ですね。まだ2人が直接に出会う前で、賢治が自分の『春と修羅』について、非常に控えめに謙遜しながら、しかし心の奥には強い自負を持って、説明している口調が胸に残ります。
その直筆の手紙とは、きっと言いようのない存在感があったでしょうね。
佐香さまも、雑誌の一仕事を終えられて、お疲れの出ませぬよう。
また6月頃の、例の企画を楽しみにしています。
『岩手日報』記事より
・ 「森荘已池に宛てた賢治の手紙展」 盛岡で
・ 写真誘う賢治の世界 盛岡・青春館