賢治はたしかにいっしゃう働いてゐたやうだった

 「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」というのは、ほんとうに不思議な題名です。

 物語は、タネリという少年が早春の野原に出かけ、「でまかせのうた」を歌い、いろいろな動植物に出会い、また家に戻ってくるというお話です。その間、タネリは藤蔓の繊維を織物用に柔らかくするために、歩きながらずっと噛みつづけていたので、それが童話の題名になっているのですが、表面的なストーリーからすると「噛んでゐた」ことに、さほど大した意味があるように思えません。
 「タネリの冒険」とか何とかなら、平凡ながら自然な題名と思えるのですが、作者が「たしかにいちにち噛んでゐたやうだった」などという長くて変な題名にしたことには、どんな意味があるのでしょうか。

 それを考えるためには、まずこの話における「噛む」ということの意味を検討してみなければなりません。
 物語の終わりで、タネリは家で母親に、「藤蔓みんな噛じって来たか」と訊かれ、「うんにゃ、どこかへ無くしてしまったよ」と答えて、「仕事に藤蔓噛みに行って、無くしてくるものあるんだか」と怒られます。この部分が明らかにしているように、「藤蔓を噛む」という行為はタネリの「仕事」なのであり、石本裕之さんが「タネリの地勢」で指摘しておられるとおり、これは「労働」というものを象徴しているわけです。

 そしてここでもう一つ私は、主人公であるタネリは賢治自身の隠喩であり、この物語は、賢治が自然と交感したり、「うた」を歌ったり、しかしある時は労働をしたりする、賢治の人生そのものをアイロニカルに表現したものではないかと思うのです。

 タネリは、春の自然に誘われて野原や丘に出かけ、そこで出会った生き物に対して、「おいらはひとりなんだから、おまへはおいらと遊んでおくれ」と呼びかけます。自然との一体感と同時に孤独感もかかえているところなどは、まさに賢治の様子を思わせ、さらにタネリが自然の模様の中に文字を読み取ったり、自分の中からあふれ出る「歌」をたくさん歌ったり叫んだりせずにいられないところも、厖大な詩を書きつづけ、童話を「林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきた」、賢治の営みそのもののようです。
 タネリの「でまかせのうた」というのは、賢治の「詩」もまさに出るに任せるようにしてどんどん生まれてきたことに対応しているのでしょうし、それが父政次郎からは「唐人の寝言」のようだと揶揄された、という話も連想させます。

 タネリが藤蔓を噛んでいるのは、彼が勝手に放浪したり遊んだりしているだけではなくて、ちゃんと生産的な労働もしているのだということを表していますが、仕事の成果である噛んだ蔓の繊維は、結局家に持ち帰りませんでした。
 これは、彼がせっかく噛んで柔らかくした繊維を、途中であちこちに吐き出してしまったためで、タネリがなぜそんな勿体ないことをしてしまったのかというと、その理由は、口が「きゅうくつ」で歌が歌いにくいからだったり、走った後に「胸がどかどかふいごのやうで、どうしてもものが云へ」ないからだったり、「思はず」だったりします。

 この事も、賢治がなかなか根気よく仕事が続かずに途中で放り出してしまい、よく父に怒られていたことを思い起こさせます。生涯のうちでちゃんと仕事をしていたと言えるのは、農学校教師時代と東北砕石工場技師時代の数年くらいで、羅須地人協会時代の農作業は、残念ながら周囲から見れば道楽のようなものでした。そして仕事や研究生をしていても、急にふっと辞めてしまうのです。
 辞めた理由は、胸の病気のため(胸がどかどかふいごのやう)だったりもしますが、たいていはどうもはっきりしません。突き詰めれば、タネリのように「自然と遊び、歌を謳う」ことにあまりにも強く惹きつけられてしまうために、「思はず」放り出してしまっているようにも見えます。
 さらにまた別の面から見ると、藤蔓を「吐き出したり噛んだりする」という行為は、春の野を「唾し はぎしりゆききする」賢治の様子を、象徴しているのかもしれません。

 つまり、ちょうど「革トランク」という童話の主人公「斉藤平太」がそうであったように、賢治はこの物語の「タネリ」という人物によって、やはり自らを戯画化してみているのではないかと、私は思うのです。

 賢治は、自分がいつも「美しいもの」に魅せられ追い求めてばかりいて、こつこつと労働に従事したりお金を稼いだりするのが不得手であることを、事あるごとに父親から指摘されつつ、自らもずっと一種のコンプレックスのように意識していたでしょう。
 物語の最後で、タネリは噛んだ藤蔓を持ち帰らなかったことを母親からとがめられますが、彼は無邪気に「うん。けれどもおいら、一日噛んでいたやうだったよ」と言い、母親も「さうか。そんだらいい」と、「タネリの顔付きを見て、安心したやうに」受け容れます。賢治にとっても、だめな息子をいつも暖かく見守ってくれる母親の存在は、生涯において最大の救いだったでしょう。
 たとえ証拠がなくても、「たしかにいちにち噛んでゐたやうだった」と認定されることは、タネリが単なる怠け者ではないこと、母と子の間に信頼関係があることを示しており、これは物語の題名にもなるほど重要なことだったのです。

 そして、現代の私たちは賢治がその短い生涯にやってきたことを詳しく振り返ってみて、彼もたしかにタネリのように、労働の「物質的」な成果や財は残さなかったかもしれないが、彼が一生にわたってどれだけ懸命に働きつづけていたかということについては、はっきりと断言することができます。

 それは、この童話の題名における、[タネリ←賢治]という隠喩と、[噛む←働く]という換喩を元へ戻せば、浮かび上がります。
 はい、「賢治はたしかにいっしゃう働いてゐたやうだった」と、私は胸を張って証言いたします。