1921年1月23日に突然家出をして東京で生活を始めた賢治にとって、どうやって収入を得ていくかということが、 まず問題となりました。1月27日に、なんとかバイト先を見つけると、故郷の親戚関徳弥にあてて、次のように報じています(書簡185)。
三日目朝大学前で小さな出版所に入りました。謄写版で大学のノートを出すのです。朝八時から五時半迄座りっ切りの労働です。 周囲は着物までのんでしまってどてら一つで主人の食客になってゐる人やら沢山の苦学生、辯(ベンゴシの事なさうです) にならうとする男やら大抵は立派な過激派ばかり 主人一人が利害打算の帝国主義者です・・・。
この「小さな出版所」というのが、本郷にあった「文信社」という店でした。「銀河鉄道の夜」の「二、活版所」の場面を、
ちょっと彷彿させるところもあります。
当時、 東京帝大経済学部に入学していた学生で、後に釜石市長になる鈴木東民という人が、たまたま当時の文信社で賢治と出会い、
次のように書き残しています(「筆耕のころの賢治」) 。
宮沢賢治と識ったのは、1920年の初冬のころであった(注:実際は1921年)。そのころ東大の赤門前に、「文信社」 という謄写屋があった。そこの仕事場でわたしたちは識り合ったのである。「文信社」は大学の講義を謄写して学生に売っていた。 アルバイト学生だったわたしはそこへノオトを貸して一冊につき月八円、ガリ版で切った謄写の原紙の校正をして、 四ペエジにつき八銭の報酬をうけていた。賢治の仕事はガリ版で謄写の原紙を切ることであった。かれはきれいな字を書いたから、 報酬は上の部であったろうと思うが、 それでも一ペエジ二〇銭ぐらいのものだったろう。この仕事を専門にしている人でも、 一日に一〇ペエジ切るのは容易でないといわれていた。(中略)
休憩時間にここの主人の居間兼事務所の八畳でお茶を飲んでいたときに、 何かの話からかれが花巻の生れで土地で知られた旧家の宮沢家の息子さんであることをわたしは知った。 そんなことから私たちは急に親しくなったのであった。(中略)
そのころのかれは袴を必ずつけていたが、帽子はかぶらなかった。今でこそ無帽はあたりまえのことになったが、当時、 袴をつけて無帽というのは異様に感じられたものだ。その袴の紐にいつも小さい風呂敷包がぶらさがっていた。最初、 わたしはそれを弁当かと思っていたが、童話の原稿だということだった。もしもこれが出版されたら、 いまの日本の文壇を驚倒させるに十分なのだが、残念なことに自分の原稿を引きうけてくれる出版業者がいない。 しかし自分は決して失望はしない。必ずその時が来るのを信じているなどと微笑を浮かべながら語っていた。・・・
当時の賢治が切ったガリ版印刷が残っていたらおもしろいのですが、現在国会図書館に収められている文信社発行の書籍で、 1921年に出版されたものを調べてみると、残念ながら活版印刷のものしかありませんでした。
そこでそのかわりに、賢治が関わっていた仕事がどんなものだったのかという雰囲気だけでもつかみたいと思い、 国会図書館でコピーしてみたのが、右写真の『生理学總論 下巻』です。賢治上京の前年、1920年の文信社発行です。
これは、当時の東京帝大医学部の生理学教授・永井潜博士による講義ノートのようで、学生の講義録をもとに、さらに8冊もの英・
独の関連文献を参考にしつつ編集したと謳っています。ただし、この「関連文献参照」は、文信社が行ったものではなく、講義ノートを提供した学生が自分で勉強して付けていたものを、一緒に文信社が引き継いだものだろうと私は思います。
ちなみに永井潜博士(1876-1957)は、
1903年から1906年まで英独仏留学、1915年から東京帝大医学部教授(生理学)、1923年から台北帝国大学医学部長、
という経歴の人でした。
実際に上の講義録の内容を見てみると、たとえば3頁4行目からの本文の一節は、「元来 Naturwissenschaft ナルモノハ unorganische Welt
ニ於テ得タルモノナレバ之レヲ organische Welt タル Physiologie ニ anwerden
シテ正シキ説明ヲ得ルヤ否ヤハ Frage ナリ・・・」などという調子で、日本語とドイツ語がちゃんぽんです。洋行帰りの先生で、
こういう講義をする人は、たしかに20年くらい前にはありました。
それにしても、文信社の講義録はあくまで整然と文章が連なり、挿入される欧字も、きれいな筆記体で書かれています。さすが、
昔の大学生は勉強家だったようですね。
賢治自身の思いはともかく、彼のように英語およびドイツ語の語学力が十分にあった人材は、 このような特殊な原稿のガリ版切りとしては、きっと重宝されたのだろうな、と思います。
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