六神丸

六神丸 もうすぐ4月ですが、通りがかりに自宅の近くで右写真のようなお店を見つけました。「六神丸」 というのは、「山男の四月」 に出てくる薬の名前ですね。

 春に浮かれて町へ出てきた山男は、支那の商人にだまされて六神丸をのまされ、 すると自分が一箱の六神丸そのものに変わってしまうのです。そして行李の中でまわりを見まわすと、支那人が売っている六神丸は、 みんなもとは人間だったのにこうして薬に変えられてしまった人ばかりではありませんか・・・。
 最後には、これは山男の夢だったということになりますが、支那人の怪しさと気弱さの対照、山男の素朴なキャラクターがおもしろく、 さまざまな情景の描写には賢治独特の幻想性もいっぱいです。
 しかし、このお話でとりわけ賢治らしいのは、薬に変えられて最初は悲しんだり怒ったりしていた山男が、 支那人のおろおろしている様子を見ると急に気の毒になって、「おれのからだなどは、支那人が六十銭まうけて宿屋に行つて、 鰯の頭や菜つ葉汁をたべるかはりにくれてやらう」と思ってしまうあたりです。

 ところで上の写真でも、薬の箱には行李のような物をかついだ(?)中国人らしい絵が描かれていて不思議な感じです。これを機会に、 ちょっと六神丸という薬について調べてみました。

 六神丸のルーツは、今から約300年前、清朝の康煕帝~乾隆帝の時代にさかのぼるようです。日本にもたらされたのは、 日清戦争の直後に京都の亀田利三郎薬舗が清から持ち帰ったのが最初とのことで、発売は1896年ですから、くしくも賢治の誕生と同年ですね (「六神丸の歴史」より)。
 その後、この薬はそれこそ「万病に効く」というようなもてはやされ方で一種のブームになり、あまりに効くので、「人間の肝から作っている」 などという噂までささやかれていたとのことです。
 もちろん実際には、六神丸に人の内臓が使われているわけはなく、その原料は、麝香(ジャコウ)、牛黄(ゴオウ)、熊胆(ユウタン)、蟾酥 (センソ)、辰砂(シンシャ)、竜脳(リュウノウ)、真珠(シンジュ)といったものでした。漢方薬の中でも、 とりわけ珍重される材料が用いられています。

 さて、神戸山手大学の信時哲郎さんは、「いのちの代償 ―宮沢賢治「山男の四月」論―」という論文において、この童話について興味深い観点から考察し、ここに出てくる「六神丸」 という薬は、賢治が終生テーマとした「食物連鎖」という問題の隠喩がこめられた小道具であると提起しておられます。
 信時さんはまず、賢治と同時代のプロレタリア作家葉山嘉樹の「淫売婦」という小説の中で、 主人公が横浜の中華街近くの倉庫に連れ込まれながら、そこが「支那を本場とする六神丸の製造工場になつてゐ」て、 「てつきり私は六神丸の原料としてそこで生き肝を取られるんだ」と想像する箇所を引用します。
 次いで信時さんは、国文学者益田勝実氏が実際の幼児体験として、「六神丸という薬は鴨緑江の向こうで、 日本からさらわれた子供の肝で造られていると聞かされていた」という話を紹介し、さらにきわめつけは賢治の「十月の末」の下書きの中に、 「支那人支那人。どこさ行ぐ。胆取りが。」という子供たちの囃し言葉が書かれていたのを指摘しておられますから、 この一連の流れは説得的です。

 すなわち、「山男の四月」で、「支那人の六神丸をのんだ山男が六神丸になってしまう」という筋立ては、「中国人が日本人を誘拐して、 生き肝を取って六神丸の原料にする」という、賢治の時代に実際に存在したフォークロアを、明らかに下敷きにしているのです。山男は、 悪徳商人の食い扶持となって役立つだけでなく、「人が命を犠牲にすることで、(薬として)他の多くの人の命を助ける」という、より大きな 「生命の連鎖」の構造にも組み込まれるのです。
 「生き肝を取る」などという生々しい手続きは、おそらく賢治は大の苦手だったでしょうから、「一挙に薬の箱に変身する」 という超現実的な展開にデフォルメされているのでしょうね。これは、「真空溶媒」の中で、保安掛りがいきなり 「一かけの泥炭」になってしまう場面なども連想させます。

 「人の生き肝」云々のような六神丸に関する流言が生まれた背景には、 信時さんの指摘のようにおそらく日清戦争の勝利に乗じた隣国への一種の差別感情があるでしょうし、 あるいは急に登場して一世を風靡した新薬への畏怖も働いているのかもしれません。その意味で、これは当時の世相から誕生した一種の 「都市伝説」とも言えるでしょう。しかし、ここでさらにもう少し調べてみると、実はこれと相似の話は、ずっと歴史をさかのぼった昔から、 日本に存在していたようです。
 戦国時代から江戸時代頃の医師、曲直瀬玄朔(1549-1631)の著書『延寿院記』には、合戦が終わった後には 「唐人のみそ屋が木車をひき、その生首の購入にくるものゆえ、いかなる頭にてあれ持ち戻れば恩賞の他に若干の首代も入手し得」 との記載があるということです。「みそ屋」というのは、普通の味噌ではなくて、 死体から採取した脳みそを原料にして生薬を作る業者のことです。
 これがまた「唐人」の仕事とされていますが、このような記載があるのはあながち異国への偏見や恐怖のためだけではないようですね。 再び賢治の時代に戻って今度は中国側の記述を見ると、魯迅の「薬」という短篇には、正規の薬を買えない貧しい人々が、 処刑された罪人の血を饅頭に浸して、病気の家族に薬として与えるために持ち帰る場面が出てきます。
 こういう方法で、人間の身体に宿っていると信じられる生気によって病気を治そうというのは、 中国に実在した一種の医療文化とも言えるものだったのでしょう。

 ちょっと賢治から離れすぎてしまいました。
 信時哲郎さんは、六神丸を「食物連鎖」の隠喩として論じる中で、賢治がこのテーマを正面から見据えた「なめとこ山の熊」にも、 当然のことながら言及しておられます。あっけなく春の夢から醒めてしまった山男とは違って、 淵沢小十郎は自分が生きるためにあくまで熊を撃ちつづけ、最期は熊に殺されます。その透徹した死の場面は、 まさに賢治の描いた美の極致の一つと思いますが、そうまでして小十郎が求めていたのは、結局は熊の毛皮と胆嚢だけでした。

 この、熊の胆嚢の成分が六神丸の重要な原料になっているというのも、一つの偶然の出会いですね。
 六神丸はもちろん実際には、当時の伝説のように(そして山男が夢で怯えたように)、 生身の人間のからだを犠牲にして作られているのではありませんでした。しかしこれは大正時代の日本では、 たくさんの熊たちと小十郎のような熊撃ちが命をかけた代償として製造され、病気の人を助けることになる薬だったのです。