80年目の「異途への出発」(3)

 朝5時前に目が覚めると、まだ真っ暗な部屋の中は、しんしんと冷え込んでいます。 昨夜ふとんに入るまではファンヒーターをつけていたので暖かかったのですが、切ってしまうとまるで室内も氷点下になっているような感じです。 もう一度ヒーターを入れて、結局そのまま起きていました。賢治も「寒キ宿」と書いていますが、きっと当時はもっと寒かったのでしょうね。

 7時すぎまで待って、あたりの散歩に出てみました。 はるか北に長く延びている三崎のあたりには朝日が当たって朱色に染まってきていますが、下安家の周辺はまだ日陰です。 安家川の河口に架かっている安家大橋を北にゆっくり渡っていると、南側の岬の向こうから、日が顔をのぞかせました(右写真)。 まさに、「百の岬がいま明ける・ ・・」 という瞬間です。
 このあと、安家川の北岸を少しさかのぼって、この地における賢治の宿の「金子説」として、 昨夜お聞きした家の方へも再度行ってみました。 金子さんとしては、「文語詩篇ノート」に、「安家寒キ宿ノ娘、豚ト、帳簿ニテ/ 濁ミ声ニテ罵レル」と出てくる箇所に関して、 小野旅館の前身にあたる小さな宿では、 豚など飼っていなかっただろうということからの推測のようです。ただ、 この箇所が意味するのは、「豚に向かって罵った」のか、 「(誰か人間に向かって)豚!と罵った」のか、いったいどっちなのか、 私にはよくわかりません。
 それからもう一度川下に歩き、河口のあたり、むかし小野旅館が建っていた場所(賢治が泊まったのならその当時の位置)というのも見て、 旅館に戻って朝食をいただきました。

 8時半ごろに宿を発つと、徒歩で野田村と普代村の境の小さな坂道を越え、堀内の港へ下りていきました。そして漁港のかたわらにある 「敗れし少年の歌へる」詩碑を、今度は明るい中で見ることができました。これを写真に収めると、港から坂道を登り、途中で小学生に 「おはようございます!」と声をかけられたりして、堀内駅から三陸リアス鉄道に乗りました(下写真)。

  しかし今日は、昨日とうってかわっていい天気です。列車は南へ、3つの「発動機船」詩碑がある田野畑、島越を過ぎ、 美しい船越海岸も過ぎて、昼すぎに釜石に着きました。ここから釜石線に乗り換えて、花巻に向かうというルートそのものは、 80年前の賢治と同じです。
 太平洋側では、上写真のようにきれいな青空で、山々に残る雪も少なかったのですが、 仙人峠を越え、 だんだん遠野盆地に入っていくと、列車の窓も曇り、またあたり一面の銀世界になりました(右写真)。

 花巻には3時前に着き、急いでタクシーでイーハトーブ館に行きました。賢治学会の「企画委員会」 に出ておられた阿部さんにお会いして、 昨日の三陸の報告とともにあらためて今回のお礼をすると、花巻空港に向かいました。

 今日は昼食をとるひまがなかったので、空港で「岩手・蔵ビール」や「早池峰ワイン」で食事のかわりとしましたが、 ふりかえると実質2日間だけだったのに、ほんとうに充実した楽しい旅でした。お世話になった皆様、ありがとうございました。