耕母黄昏

1.歌曲について

 1926年(大正15年)3月に花巻農学校を辞職して、「羅須地人協会」を標榜し独居生活を始めた賢治は、みずからも農耕に従事し、若者を集めて講義や音楽合奏などもしたりするかたわら、一人でオルガンの練習をしていました。
 1926年12月の上京中に、父政次郎にあてた書簡[221]には、次のような一節があります。

いままで申しあげませんでしたが私は詩作の必要上桜で一人でオルガンを毎日少しずつ練習して居りました。今度こっちへ来て先生を見附けて悪い処を直して貰ふつもりだったのです。新交響楽協会へ私はそれらのことを習ひに行きました。先生はわたくしに弾けと云ひわたくしは恐る恐る弾きました。十六頁たうたう弾きました。先生は全部それでいゝといってひどくほめてくれました。もうこれで詩作は、著作は、全部わたくしの手のものです。どうか遊び仕事だと思はないでください。

 東京でレッスンを受けるまで、賢治が独学でどのようにオルガンの練習をしていたのかということについては、まだ不明な部分も多いようです。しかし少なくとも一冊、この当時に賢治が所有していたオルガンの参考書が明らかになっていて、草川宣雄著『オルガン奏法の研究』という本がそれです。後日、病に倒れてからの賢治は、この本を教え子の沢里武治に贈呈してしまいましたが。

 ところで、この本に掲載されている「練習十八」という曲には、編者による次のような解説が付けられていました。

次の曲は鳥も花も野も山も夜の帷にとざされて行く静かな夕方の色を現らはした深い厳粛の感興を添へる曲であつて、曲の始めにある Adagio は静かに且つ感じを以つて弾けと云ふ意味を持つて居る発想記号である。

 その「練習十八」の楽譜は、後にこの「耕母黄昏」となる曲(全16小節)から8小節が引用されたもので、上の解説文に触発された賢治がメロディーに合わせて作詞をして、ここに「耕母黄昏」という歌曲が生まれたのではないかと推測されるわけです。
 このページ下端に掲載した楽譜が、賢治自筆の「耕母黄昏」ですが、ここには草川宣雄著『オルガン奏法の研究』には掲載されていない16小節全部が書き写されているため、賢治がこの曲を知っていたのは、草川宣雄の著書によってだけではなく、何か別の楽譜も通してであったと思われます。東京でレッスンを受けた際に賢治が「十六頁たうたう弾きました」というのも、そのもう一つの楽譜を含んだ教則本であった可能性があります。
 その本が何であったのかはまだ判明していませんが、佐藤泰平氏は『宮沢賢治の音楽』の中で、島崎赤太郎編『オルガン教則本・壱』だったのではないかと推測しておられます。

 さて、このページ下端の賢治自筆楽譜は、37.7cm×28.8cmという大きな厚紙にていねいに書かれたもので、この体裁は、童話「ポラーノの広場」において、遠いトキーオ市にいるレオーノキューストのもとに送られてきた郵便の中身(「それは一つの厚い紙へ刷ってみんなで手に持って歌へるやうにした楽譜でした・・・」)を、まさに連想させます。
 それは、「ポラーノの広場のうた」の楽譜と同様、羅須地人協会に集う仲間で合唱する目的のために、作成されたものではなかったでしょうか。

 曲そのものはきわめて平易な讃美歌のような旋律で、賢治の歌詞もまた素朴な祈りのような雰囲気をたたえています。
 賢治にとって「父」なるものは、ある時期からは反撥や出奔の動因だったようですが、作品中の「母」は、この詞のように、「帰る」「やすらぐ」というイメージに結びついているようです。

2.演奏

 下の編曲では、一番は下の楽譜どおりのオルガン伴奏、二番はオーケストラ伴奏とし、‘VOCALOID’の Meiko と Kaito を使って、合唱を付けてあります。

3.歌詞

風たちて樹立さわぎ
鳥とびてくれぬ
子らよ待たん いざかへれ
夕餉たきてやすらはん

風たちて穂麦さわぎ
雲とびてくれぬ
子らよ待たん いざかへり
夕餉たきていこひなん

4.楽譜(賢治自筆)