火の島

1.歌曲について

 「火の島」とは、活火山 三原山を中心に持つ、伊豆大島のことです。賢治は1928年6月12日から14日までの三日間、大島在住の友人伊藤七雄に招かれて、この島に滞在しました。

 当時、伊藤は大島に農芸学校を設立しようと計画していて、そのための土壌調査や助言を賢治に依頼する、というのがこの招待の表向きの理由でした。しかし、実は伊藤の心の中には、自分の妹チヱと賢治を、そっと「お見合い」させようというという目的があったようです。
 そして、実際にこの時二人は、たがいに心ひかれる気持ちを抱いたようなのです。賢治がこの大島紀行をスケッチした「三原三部」という作品群には、彼の他の作品にはあまり見られないような、「妖艶」とも言える雰囲気が感じられる部分があって、印象的です。

 しかし結局、結婚話はそれ以上進展することはなく、二人はまた遠く離れて、それぞれの人生を送ることになりました。


 後年、伊藤チヱが森佐一に送った手紙には、大島を訪れた時の賢治について、次のような記述があります。

「あの人は御見受けいたしましたところ、普通人と御変りなく、明るく芯から楽しそうに兄と話して居られましたが、その御語の内容から良くは判りませんでしたけれど、何かしらとても巨きなものに憑かれてゐらっしゃる御様子と、結婚などの問題は眼中に無いと、おぼろ気ながら気付かせられました時、私は本当に心から申訳なく、はっとしてしまひました。」
「あの人の白い足ばかりみていて、あと何もお話しませんでした。」 (森 荘已池「宮沢賢治の肖像」)

 「白い足」云々というのは、「三原 第二部」にあるように、「かういふ土ははだしがちゃうどいゝのです」と言って、賢治が畑で裸足になって作業しているのに、驚いて見とれていたのかもしれません。

 一方の賢治は、三年後にやはり森に対して、次のような話をしていたということです。

「実は結婚問題がまた起きましてね、相手というのは、僕が病気になる前、大島に行った時、その島で肺を病んでいる兄を看病していた、今年二十七、八になる人なんですよ」
「何でも女学校を出てから幼稚園の保母か何かやっていたということです。遺産が一万円とか何千円とかあると言っていますが、僕もいくら落ちぶれても金持ちは少し迷惑ですね」
「ですが、ずうっと前に話があってから、どこにも行かないで待っていたと言われると、心を打たれますよ」 (佐藤隆房「宮沢賢治」)

 賢治がその禁欲的な生涯で、ただ一度だけ本気で結婚を考えたと言われるエピソードです。

 この「火の島」という歌曲には、このような意味合いを持った、大島の思い出が込められているのでしょう。
 北国の内陸部に生まれ育った賢治の作品としては、「南の海」というテーマは珍しく、おそらく上記のような事情もあいまって、独特の情感を帯びています。
 賢治が、自分でこの歌を唄っていた様子については、教え子の一人が次のように回想しています。

「ええ、ウェーバーの曲です。これを先生は高い声で歌いました。そして歌うのも普通じゃないんですよ。ちょっとぼぉっと上気しました。大島をしのんでいるみたいで、やはりあの伊藤チヱさんを懐っていたんだと思います(笑)。ああいう上気した顔を見たことはありません。」 (小原忠「師賢治を語る」)

 そして、これにはさらに後日談があります。

「私が昭和四〇年に東京に出て来て間もなくだったと思いますが、ある日突然、立派な、体格もがっちりした、品の良いおばあさんが私を訪れてそして自己紹介するには、「私、水沢出身で、伊藤と言います」といいました。用件は水沢の甥が大学に入るので入寮をお願いしたいとのことでした。それで私はかねて「三原三部」で知っていた「ひらかぬ花の蕾のひと」はこの人だと直感しました。
 それで、「火の島の歌を御承知ですか」と。私はこの歌は好きなものですから、これを高い声で歌い出したら、伊藤チヱさんは私と合わせてすっかり上手に正確に最後まで歌うではありませんか。あれは本当に不思議だと思いましたね。
 チヱさんの言うには、本屋さんに行って、よく賢治の本をめくり立ち読みしてくるということでしたけれども、おそらくいま考えると、大島で「火の島の歌」をお二人がいっしょに歌ったんじゃないでしょうか。そうじゃないと、ああいう風に歌える筈はないと思います。
 とても立派なお人柄の方なんです。このお二人がいっしょになられたらどんなによかったろうと今でも思います。」(同上)


 上の話にも出てきたように、この曲の旋律には、ウェーバー作曲の歌劇「オベロン」のなかのアリア「人魚の歌」のメロディーが使われています。
 ‘mermaid’=「海の乙女」ですから、賢治がこの曲を用いた背景には、太平洋上の島で暮らす伊藤チヱのイメージへの連想もあったのかもしれません。

 歌詞の推敲過程を見ると、初期の「下書稿(一)」などでは、「わが胸の火ぞ燃ゆる」と、より直截に感情表現がなされていたのがわかります。推敲を重ねるとともに、だんだん個人的な感情をぼかしていってしまうのは、賢治の常套です。
 また、「百合を掘る」というモチーフには、賢治が17歳の頃の短歌「またひとり/はやしに来て鳩のなきまねし/かなしきちさき/百合の根を掘る」(歌稿〔B〕146)とか、「友だちの/入学試験ちかからん/われはやみたれば/小さき百合掘る」(歌稿〔B〕145)などに通ずるものを感じます。この頃は、岩手病院の看護婦さんへの片思いに胸を焦がしていた時期で、賢治にとっては、「百合を掘る」という行為は、このような切ない恋愛感情を思いおこさせるところがあったのかもしれません。
 いずれにしても、歌曲「火の島」の「火」とは、少なくともある時期に、賢治が伊藤チヱという女性を思うとき、胸に燃えた思いの象徴なのでしょう。
 なお、この時の大島における賢治の作品については、「大島紀行詩群」もご参照ください。

2.演奏

 下の演奏は、春秋社版『アリア名曲集 III』に収められている「人魚の歌」のピアノ伴奏楽譜をもとに作成しました。「人魚」と言えば「ハープ」ということで、伴奏はハープ、歌は‘VOCALOID2’の巡音ルカです。

3.歌詞

海鳴りのとゞろく日は
船もより来ぬを
火の山の燃え熾りて
雲のながるゝ
海鳴りよせ来る椿の林に
ひねもす百合堀り
今日もはてぬ

4.楽譜

(楽譜は『新校本宮澤賢治全集』第6巻本文篇p.373より)