弓のごとく

1.歌曲について

 夜どおし山野を歩き抜いて、ついに朝の光があたりを染めるころ、長かった行程も終わりに近づき、家はもうすぐそこという所までたどり着きました。眠っていない身体に疲れはあるものの、むしろ気分はふりしぼった弓のように高揚し、いまや鳥のようにいっさんに、彼は家に向かって歩いていきます。きっと家ではやさしい母が、 風の中から現れた彼を迎えてくれるでしょう。

 この歌の歌詞から連想する上のような情景は、まさにある時期の賢治の行動の一コマだったのだろうと思います。そしてこの帰り道の道すがら、きっと彼は「弓のごとく …」というこの歌を実際に口ずさみながら 、家路をたどっていたのではないかと思うのです。

 文字どおり「風来坊」のようだった宮澤賢治ですが、おそらくそれゆえにいっそう、「家に帰る」ということに対していだく独特の感慨もあったのではないでしょうか。 「三二九 母に云ふ(下書稿(一))」というテキストでは、家にたどり着いて、歩いてきた経路を母に報告してから、その母に食事のおねだりをしています。ここにうかがえるのは、 頑なに父に反発して「家出」をする賢治とは、まったく対照的な一側面です。
 私は、「弓のごとく」の歌詞を口ずさむと、いつもこの「母に云ふ」という作品を連想します。

 賢治がこの歌詞を付けたメロディーは、ベートーヴェンの交響曲第六番「田園」の、第二楽章第一主題でした。原曲は、音楽好きの賢治が、とりわけ愛した曲だったことで知られています。

 これはたんなる小さな「替え歌」にしかすぎませんし、賢治の歌曲のなかでは、あまり注目されることもない一品かもしれません。
 しかし、ひとたびこの歌詞と曲を憶えておいていただければ、これはいつでもあなたが疲れて家路をたどる時に、口ずさむのに格好の歌になります。
 ぜひ、あなたの鼻歌のレパートリーのひとつに加えていただくことをお勧めしたく、ここにとりあげました。

2.演奏

 下の演奏の歌唱は、男声のKaito、女声のMeikoです。伴奏は素朴なアコースティックギターで、二回繰り返したあと、「鳥のごとく」という一節にちなんで、ウグイス、ウズラ、カッコウの啼きかわす、あの有名な場面も入れてあります。

3.歌詞

弓のごとく
鳥のごとく
昧爽まだきの風の中より
家に帰り来れり

4.楽譜

(楽譜は『新校本宮澤賢治全集』第6巻本文篇p.371より)