「霧晴れぬ」歌碑

1.テキスト

   霧晴れぬ
  分れて乗れる
    三台の
ガタ馬車は行く
  山岨のみち

   宮沢賢治

2.出典

校友会会報 第三十二号

3.建立/除幕日

2016年(平成28年)7月 建立

4.所在地

埼玉県秩父郡小鹿野町三山1195 古鷹神社境内

5.碑について

 埼玉県小鹿野町にあった「本陣寿旅館」は、江戸時代の代官出役所に端を発するという、創業350年の老舗旅館でした。この宿は、萩原昌好さんが著書『宮沢賢治「修羅」への旅』において、宮沢賢治が盛岡高等農林学校の秩父地質調査旅行の際に宿泊した旅館のではないかと推定しておられ、私も2001年に泊まってみたことがあったのですが、小ぢんまりとはしていましたが、食事は赤い毛氈を敷いたお座敷でいただく「代官料理」という立派なコース料理だったり、お風呂は二つの源泉から引いている温泉だったりして、思い出に残る一泊でした。帳場には、賢治の草稿の複製も飾ってあったことも、印象に残っています。
 しかし残念ながら、その後2008年に、この「本陣寿旅館」は営業を終了してしまったのです。「賢治が泊まった宿」として、当時から現在も営業を続けている施設がまた一つ減ってしまったのは惜しいことですが、しかしこの旅館の廃業が、賢治の足跡を教えてくれる新たな「発見」につながったというのは、不思議な運命のめぐり合わせとも言えます。
 すなわち、競売に付されたこの由緒ある建物を購入した小鹿野町が、町の「観光交流館」として再オープンさせるために改装工事を行うにあたり、旅館が所蔵していた昔の資料等を町教育委員会が2011年に調査したところ、確かに1916年(大正5年)に盛岡高等農林学校の一行がここに宿泊したという明確な「証拠」が、見つかったのです。
 下の写真が、当時の旅館の主人が克明に記録していた「日記」の、大正5年9月4日-5日のページです。

 この日記には、9月4日の欄に、「盛岡高等農林学校教授関豊太郎神野幾馬両氏ト生徒二十三人来宿ス」との記載があり、これによって萩原昌好さんの推定が正しかったことが、一次史料によって確かに裏付けられたわけです。さらに一行の行程に関しては、「午前中来館、三田川村源沢ニ向ハレ夜、帰宿セラル」との記載があり、午前中にいったん宿に荷物を置いて身軽になった後、「三田川村源沢」に行き、夜に帰宿したということがわかります。この「源沢(みなもとざわ)」は、現在は「皆本沢」という漢字があてられていますが、旅館のある小鹿野町の中心部からは、9kmほど西の山奥に入ったあたりの沢で、一行がこの場所に行ったということは、今回の発見によって初めて明らかになった事実でした。
 この皆本沢は、地質学的には「山中地溝帯」と呼ばれる一角にあり、中生代白亜紀の地層が克明に観察できる場所ということで、地質学研究者には有名な場所だそうです。賢治たち一行も、そのような地層を観察するために、こんな山奥まで馬車でやって来たのでしょう。

 ということで、 この歌碑が建てられている場所の説明が長々しくなってしまいました。この「古鷹神社」は、旧三田川村の村社だったという由緒ある神社ですが、賢治たち一行が皆本沢に行ったことが判明したことも記念して、皆本沢にほど近い場所の適地として、この神社境内が歌碑の建立場所に選ばれたというわけです。

 上の地図のように、古鷹神社から赤平川の支流をさかのぼったあたりが、「皆本沢」です。
 「霧晴れぬ/分れて乗れる/三台の/ガタ馬車は行く/山岨のみち」という短歌が詠まれたのが、具体的にどこの場所だったのかということはわかりませんが、一行が皆本沢に向かう途中、この古鷹神社の前を通った際も、やはり「三台のガタ馬車」に分乗していたことは、確かでしょう。

 上の写真は、宮沢賢治小鹿野町来訪100年記念誌『宮沢賢治と小鹿野』に掲載されている当時の乗合馬車の様子ですが、賢治たちが乗った「ガタ馬車」も、きっとこのようなものだったのでしょう。

 古鷹神社の入口の鳥居は、下写真のようなものです。境内には、幹の周囲が6mもあるような巨きな杉の木が立っています。
 鳥居の左奥に見えるのがこの歌碑ですが、私が訪ねた日は、2016年9月4日――すなわち賢治がこの地を訪れてからちょうど100周年の記念日ということで、歌碑の前ではボランティアの「賢治歌碑案内人」の方がいろいろと説明をして下さっていて、私以外にも見学に来られた方が、すでに何人もいらっしゃいました。


古鷹神社鳥居