「本野上」歌碑
1.テキスト
盆地にも
今日は別れの
本野上
駅にひかれる
たうきびの
穂よ
宮沢賢治
「雨ニモマケズ風ニモマケズ…」で有名な
宮沢賢治は 大正五年(一九一六)九月 盛岡
高等農林学校二年 二十歳の時 地質調査研
究のため 先生 学友と共に秩父地方を訪れた
三日に岩畳や虎岩を見学 小鹿野 三峰
秩父を経て帰りの七日 対岸の甌穴を見学し
本野上駅(現野上駅)から帰郷した
碑の歌は その時の風景と心境を詠んだもので
ある その後賢治は農学校教師 農民指導
等に情熱を傾け 童話や詩など多くの作品を遺した
長瀞町と賢治の貴重な出会いの証を永く後世に
伝え 町の教育文化向上と観光発展に資する
ため町内外有志の浄財と町の協力により この
歌碑を建立する
平成十五年九月
宮沢賢治歌碑建立委員会
書 吉田梅子
刻 福島石材
2.出典
『校友会会報 第三十二号』より
3.建立/除幕日
2003年(平成15年)9月 建立
4.所在地
埼玉県秩父郡長瀞町大字本野上 秩父鉄道野上駅前
5.碑について
萩原昌好氏の推定によれば、秩父における盛岡高等農林学校の地質学研修旅行の最終日の1916年9月7日、賢治たち一行は秩父大宮の宿から本野上へ来て、ここにあった日本最大のポットホールを見学した後、本野上駅から帰途につきました。
9月2日から約1週間にもわたり、秩父盆地に分布する様々な地質学的スポットをめぐった旅も、ここでついに終わりとなったのです。一行は、おそらくこの駅を午後に発って東京へ向かい、上野発午後11時の急行青森行きに乗りました。そして、翌日午後12時59分に盛岡に着いて、そこで解散となったと思われます。(萩原昌好『宮沢賢治 「修羅」への旅』(朝文社)より)
「盆地にも 今日は別れの 本野上」という一節には、この地で旅の名残を惜しむ賢治の心が、反映しているように感じられます。
ところで、賢治がちょうど20歳となったこの1916年(大正5年)という年は、彼にとっての世界が格段に広がる一年となりました。すなわち、3月に関西地方の修学旅行で京都、大阪、奈良をめぐり、8月には単身で上京して「独逸語夏季講習会」を受講しつつ約1か月の東京滞在、そして引き続きこの秩父研修旅行に参加したのです。
それまでは、賢治が岩手県の外に出たのは、16歳の時の中学の修学旅行で、お隣の宮城県の松島、仙台に行っただけだったのですから、彼の行動範囲は、1年で画期的に広がったわけです。
その後の彼の東京行きは、翌1917年1月の叔父恒治との商用、1918年から1919年にかけてのトシの看病、そして1921年の家出へ…、と続きます。
秩父鉄道野上駅 左端に賢治歌碑