大川小学校壁画

1.テキスト

〔雨ニ〕モマケズ
〔風〕ニモマケズ
     平成十三年度
       卒業制作

世界が全体に幸福にならない
うちは、個人の幸福は
ありえない・・・・・
      宮沢賢治

2.出典

〔雨ニモマケズ〕」(「補遺詩篇 II」)
「農民芸術概論綱要」より改変

3.建立/除幕日

2001年(平成13年)3月 制作

4.所在地

宮城県石巻市釜谷山根1 大川小学校跡地

5.壁画について

 東日本大震災の津波によって児童74人と教職員10人が犠牲になった大川小学校の校舎全体を、今後も末永く「震災遺構」として保存することを、石巻市は2016年3月26日に発表しました。
 この被災校舎の扱いについては、後世に教訓を残すためにと保存を希望する遺族がおられる一方で、痛ましい校舎の姿を見るたびにつらいということで解体を求めてきた遺族もおられ、市民アンケートでも両者の意見は拮抗していたということです。保存するとなると、初期整備費用が数億円、維持のためにも毎年数千万円がかかるということで、並大抵のことではありません。
 それにもかかわらず、石巻市当局が保存の決断を下した背景には、やはりこの場所で起こった惨事の特別さというものがあったのだろうと、思いを致さずにはいられません。

 震災の当時、石巻市立大川小学校に在籍する児童数は108人で、そのうち震災当日に欠席していたり、地震後に保護者が迎えに来て帰宅した子供を除くと、津波が来た時点で78人の児童が、学校にいました。教職員は全部で13名でしたが、そのうち出張などで不在だった2名を除いて、11人の先生が学校にいました。
 津波が小学校を襲った3月11日の午後3時37分頃、教職員と児童は避難しようと列を組んで移動中だったということですが、児童78人のうち74人が犠牲になり、教職員11人のうち10人が亡くなりました。

 あれほど甚大な被害をもたらした東日本大震災ですが、「学校管理下」の状況にある児童や生徒が亡くなったという事例は、実は全国でこの大川小学校の74名と、あとはお隣の南三陸町にある戸倉中学校の生徒1名だけなのです。
 このことからも、大川小学校における出来事が、被災地全体の中でもいかに飛び抜けた事態だったのかということがわかります。

 また、当事者の大半が犠牲になってしまったために、当日の事実経過も当初は不明確でしたが、生存者の証言などによって徐々に経緯が明らかになるにつれて、学校の避難行動に関していくつかの大きな「謎」が、クローズアップされてきました。

 遺族や市教委の調査によって判明したところによれば、大川小学校の児童たちは、本震がおさまると全員が校庭に集められて点呼を受けました。保護者が迎えに来た一部の子供はそこから帰宅し、残った児童は校庭で待機を続けました。
 地震発生は午後2時46分、大川小学校周辺への津波到達は午後3時37分と推定されていますから、この間に51分の時間があったわけですが、実際に津波が襲ってきた時、子供たちが避難を開始してからはまだ1分も経っていなかったことがわかっています。ほぼ全員が津波に呑まれた場所は、学校の目と鼻の先でした。
 校庭に集合してから、避難開始までの約50分間、この間には「大津波警報」も発令されていますが、先生と子供たちは、寒い校庭で、いったい何をしていたのでしょうか。
 また小学校の校庭からは、上の写真に写っている「裏山」に直接登ることができるようになっているのですが、教職員と児童は津波に備えてこの山に登るという行動はとらず、わざわざ危険な新北上川の堤防の方に向かって、避難をしようとしていたこともわかっています。もし仮に、避難をもっと早く開始して、目的地としていた堤防上の通称「三角地帯」に到着していたとしても、その場所もやはり津波に呑み込まれてしまう運命にあったのです。
 一方、校庭に集合していた段階では、「山さ逃げよう」と訴える児童がいたという証言があり、1人だけ生存した教諭も「山へ逃げますか?」と他の教諭に意見を言っており、裏山に避難するという選択肢も、当事者にははっきりと意識されていたのです。
 それなのに、結局裏山ではなくて堤防の上が避難場所として選ばれた理由は、いったい何だったのでしょうか。

 このような「謎」が浮かび上がる中で、わが子を亡くした遺族の方々としては、いったい大川小学校において何があったのか、地震発生から津波がやって来るまで、事態はどのように推移したのか、知りたいと思われるのは当然のことでしょう。

 そういう遺族の要望を受けて、石巻市教育委員会が「第1回保護者説明会」を開いたのは、2011年4月9日でした。通常ならば、まずは学校当局が説明の主体になるのでしょうが、学校組織自体がほぼ消滅してしまった状況下で、教育委員会が当初から表に立ちました。
 しかしこの後、教育委員会の対応は迷走していくのです。その説明の内容は、重要な部分で二転三転して遺族の不信感を煽り、6月4日の「第2回保護者説明会」では、1時間で一方的に会を打ち切った上に、「今後は説明会はしない」と言って、さらに強い反発を招きました。5月には、教育委員会として児童の聴き取り調査を行ったのですが、遺族がその内容を確認しようとすると、委員からは「メモは破棄しました」という信じられない回答が返ってきて、また問題を紛糾させました。
 このような対応を受けた遺族の側には、市教委は学校側の責任を回避するために、わざと真相を隠蔽しようとしているのではないかという、持ちたくもないような不信感も生まれていったのです。
 「先生がいない方が、うちの子は助かった」。そのように訴える遺族もおられます。

 このようにして、遺族と市教委の間に深い溝ができてしまう中、両者の間を取り持つような形で、2013年2月に文部科学省が主導して、全国的な有識者を集めた「大川小学校事故検証委員会」が立ち上げられました。これは、石巻市が予算5700万円をつぎ込み、市や教育行政からも独立した第三者機関として設置したものだったのですが、結局この検証委員会も、上に挙げたような「謎」の真相に迫ることはできませんでした。
 遺族の方々の思いは宙に浮いたままで、委員会は2014年1月に最終報告書を出した後、解散してしまうのです。

 そして、2014年3月10日、犠牲となった児童23人の遺族は、宮城県と石巻市に対して損害賠償を求める民事訴訟を、仙台地方裁判所に起こしました。

◇               ◇

 さて、大川小学校のもと校門があったあたりには、今は慰霊碑、献花台が設けられ、花壇やプランターも並び、たくさんの花が咲いています。この場所が、ずっと心をこめて手入れされ続けているのがわかります。

大川小学校慰霊碑1

 奥に入っていくと、亡くなった皆さんの名前を刻んだ慰霊碑や、"Angel of Hope"と名づけられたモニュメントの並ぶ、下のような一角があります。

大川小学校慰霊碑2

 小学校の校舎は、今は下のような感じで残っています。小ぢんまりとしていますが、とてもモダンで魅力的な形です。
 震災の日には、校舎の向こうにある北上川の方から、屋根をはるかに越えて津波が押し寄せたということです。

大川小学校校舎

 この場所から、右を向いた方向に、冒頭の写真の壁画が残っています。

 壁画の右端には、「〔雨ニ〕モマケズ/〔風〕ニモマケズ」とあり、「平成十三年卒業制作」と書かれています。震災からちょうど10年前の卒業生が、残していってくれたわけです。
 そして、左の方には銀河鉄道と、星座や星雲が描かれ、賢治らしいシルエットもあります。
 またさらに左には、「世界が全体に幸福にならない/うちは、個人の幸福は/ありえない・・・・・」と、「農民芸術概論綱要」の一節を少しモディファイした言葉が書かれています。

 小学校を卒業するにあたって、卒業生たちがこのように賢治の作品にもとづいたモニュメントを作ろうと団結した背景には、きっと学年全体として、何かそういう雰囲気があったのでしょう。一つの学年が十数人という少人数だからこそ、こういう突っ込んだ取り組みができたのかもしれません。

 ところで冒頭の写真を見ていただいたらわかるとおり、壁画の右端に書かれている「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」という部分は、「雨」「風」という文字のあった所が津波の際の衝撃で砕けてしまっています。今私たちが読めるのは、「モマケズ/ニモマケズ」という文字だけで、その様子はまた痛ましさを誘います。
 しかし、逆にそのおかげで、この壁画を見る人は、「雨」「風」の代わりに、自分が負けないようにと願っている何か別の言葉を、思い思いにここに入れて、自分なりの読み方ができるようにもなっています。
 たとえば生き残った私たちに、「地震ニモマケズ/津波ニモマケズ」と勇気づけてくれているように感じとることもできます。

◇               ◇

 それにしても結局、大川小学校の教職員と児童たちは、なぜ地震発生後に50分間も避難せずに、校庭に留まっていたのか。なぜ避難先として裏山を選ばずに、北上川の堤防近くに向かったのか……。
 その「謎」の答えの一つは、おそらく当日の教職員は、学校まで津波が来て全員の生命が脅かされるという危機感を、十分に持っていなかったということでしょう。地震50分後に避難を開始するまで、校庭の寒さ対策としてたき火をする準備が行われていたという証言もあり、津波来襲の直前まで多くの先生は、このまま校庭で待機しておれば、事態は収束すると楽観していたふしがあります。
 しかし、それでもなお不思議なのは、尋常ではない規模の地震を体験した後で、津波に備えて「念のために」という意識が、どうして働かなかったのか、ということです。先生たちとしては、職務に熱心か怠慢かという以前に、自分たちの生命もかかっている状況だったのです。
 少なくとも自分の命を守るためにも、「裏山に避難する」という選択肢は教職員の中にあったはずですが、その方法がとられなかった理由として私が特に気になるのは、遺族の1人であり、ご自身も中学校教諭である佐藤敏郎さんによる、次のような指摘です。

教員間では、(裏山に避難させて)汚れたり、転んで怪我をすることで、責められるかもしれないという雰囲気が支配していた。(『石巻市立大沢小学校「事故検証委員会」を検証する』p.22)

職員集団に、余計なことをして失敗したり、めんどうになることが責められる雰囲気があり、このような局面においてもそれが優先し、組織としての判断基準になってしまったのです。(同上p.27)

 震災当時の大川小学校に、このような「雰囲気」があったのだとすれば、それは文字どおり「死に至る病」であったわけです。そして、ふとあたりを見まわしてみれば、その「病」は今回の事故にかぎらず、今の日本に暮らす残りの私たちをも、知らないうちに侵しているのかもしれないとも感じる、今日この頃です。