「春」詩碑
1.テキスト
春 一九二六、五、二
陽が照って鳥が啼き
あちこちの楢の林も、
けむるとき
ぎちぎちと鳴る 汚ない掌を、
おれはこれからもつことになる
2.出典
「七〇九 春(下書稿(二)手入れ)」(『春と修羅 第三集』)
3.建立/除幕日
2012年(平成24年)3月 建立
4.所在地
花巻市桜4丁目 賢治文学散歩道
5.碑について
昔は「下根子」と呼ばれた花巻市桜町のあたりですが、「同心屋敷」から、羅須地人協会跡の「賢治詩碑」へと続く歩道の傍らに、この詩碑はあります。
花巻市では2007年から、市内27の「コミュニティ地区」ごとに、それぞれの住民が自主的に特色ある「まちづくり」に取り組むという構想を推進しています。市南部の「花南地区コミュニティ会議」は、2008年度から「宮沢賢治詩碑周辺整備事業」を進めていますが、その一環としてこの歩道は「賢治文学散歩道」と名づけられ、整備が行われてきました。下の写真が、その「賢治文学碑散歩道」の説明碑です。
ここには、『春と修羅 第二集』の作品「告別」より、「云はなかったが、/おれは四月にはもう学校に居ないのだ/おそらく暗くけはしいみちをあるくだらう」という一節が引用され、「賢治文学散歩道」の趣旨について、次のように説明しています。
宮沢賢治三十歳。賢治には四年余勤めた花巻農学校を辞してでも果たさねばならない使命がありました。ほんとうの百姓となり、
自らが高らかに掲げた「農民芸術の理想」実現への挑戦です。
ここ、下根子・桜の地こそがその道場でした。三年に満たない
活動でしたが、この地で生まれた多くの作品に私達は賢治の求道
の姿を見ることができます。
花南地区コミュニティ会議は、宮沢賢治がこの地に刻んだ足跡
を顕彰し、この地から生まれた作品を碑として設置しました。
そして、同会議が 単独の詩碑として最初に設置したのが、上の「春」詩碑だったのです。
この作品には、賢治が花巻農学校を退職し、1926年4月をもってこの地で「羅須地人協会」などの活動を開始してから、約1か月後の日付が記されています。同じく「一九二六、五、二」の日付を持つ、「村娘」という作品から『春と修羅 第三集』は始まっていますが、まさに新たな賢治のスタートを象徴するような作品です。
家を出て農地の開墾に明け暮れる日々、蓄積した疲労も並大抵ではなかったでしょうが、作業の合間にふとぼんやり鳥の啼き声やあたりの景色に心を向け、そして自分の汚れた掌を眺めてみている……という情景でしょうか。
碑の裏面には、「平成二十四年三月設置/花南地区コミュニティ会議/揮毫 平成二十三年度南城中学校卒業生」と記されていて、碑の文字は近くの南城中学校の卒業生が書いたものだということです。
碑石の桃色花崗岩はとても美しいのですが、ただ個人的には、その碑石の色と彩色文字の薄青色とのコントラストや、碑全体の形のデザインがどういう趣旨なのか……と、ちょっと違和感もあるのが、正直なところです。